「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

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【大徳は閑を踰えず。小徳は出入すとも可なり】 Vol.488 ~荀子の性悪説へ

 

子夏(しか)曰わく、大徳は閑(のり)を踰(こ)えず。小徳は出入(しゅつにゅう)すとも可なり。(「子張第十九」11)

 

(解説)

子夏の言葉。「大徳 人格者は、規範を越えることはしない。小徳 人格者にまだ達することのない未熟な者は、多少出入りしてもさしつかえない(参考:「論語加地伸行)  

 

 一般的には、「大徳が軌道を外れなければ、小徳は多少の出入りがあっても、さしてとがむべきではない」と読む。「大徳」とは大きな徳目、「小徳」を小さな徳目として、大もとを踏み外さなければ、小さなところでの間違いは許容できるということであろうか。それを加地は人に例える。

 日常における小さなミスは許容されてもよかろう、それを本人が気づき、正していけるならそれが成長につながるとも解釈できそうだ。小さなミスも許されないと堅苦しい社会になってしまう。

 

 

 

 ミケランジェロは、『つまらないものが完璧を生み出すのです。そして、完璧なものはつまらないどころではないのですよ』といったという。

 細部まで丹念に描き、仕上げることは骨の要る作業だ。つまらないことを続けることには忍耐が必要だ。途中であきらめてしまうこともあるかもしれない。ミケランジェロは、些細なこと、つまらないこと、日々の些事の積み重ねが偉大な芸術になることを実践で示している。 

 

 子夏は目的を失うなと言いたかったのだろうか。

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「子夏」、姓は卜(ぼく)、名は商。孔子より44歳若く、孔子学団の年少グループ中の有力者。文学にすぐれた、つまり最高の文献学者だったという。孔子晩年の弟子。孔門十哲の一人。後に魏の文侯に招かれ、その師となる。    

「朋友と交わるに、言いて信有らば、未だ学ばずと曰うと雖(いえど)も、吾れは必ず之れを学びたりと謂わん」とは、「学而第一」7での子夏の言葉。

友人と交わるときは、ことばと行動とが一致するよう信義を守る。もしそういう人柄であれば、たといその人が「いや、自分のような者はまだまだです」と言ったとしても、私はもう十分に教養人であると考える。

 文学には、子游、子夏ありといわれる、子夏の心優しい一面なのだろうか。

 

 

 

 子夏の学風は後の「性悪説」で知られる荀子へと受け継がれるという。

 その荀子は、「学は以て已(や)む可からず」といい、人間は終生学び続けることによって自らを改善しなければならないと説いた。「青は藍より出て藍より青し」の言葉も荀子にある。

 その思想が「性悪説」へとつながったのだろうか。

 荀子は人間の性を「悪」すなわち利己的存在と認め、君子は本性を「偽」すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かうとした(参考:Wikipedia)。

 学びの重要性を説く孔子、子夏の思想、哲学をもとにすれば、その発想もあるのかもしれない。

 荀子に従って現代社会を考察すれば、納得できるところも多いのかもしれない。徳、礼の学びがなければ、「善」が乏しくなるばかりで、みな利己的に走り、矛盾や社会課題多き世になり、それが「今」ともいえそうだ。

 さりとて、その解決を荀子が勧める「礼」に絶対に従う必要はないのであろう。ただ社会規範としての「礼」は必要なのかもしれない。それが今日でいう「倫理」であったりするのだろう。

 

 荀子は「天」を自然現象であるとして、従来の天人相関思想(「天」が人間の行為に感応して禍福を降すという思想)を否定したという。「天」自然現象を研究してこれを利用するほうが良いとしたそうだ(参考:Wikipedia)。 

 

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

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  • 作者:加地 伸行
  • 発売日: 2009/09/10
  • メディア: 文庫
 
論語 (ちくま文庫)

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  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫