子曰く、巧言令色、鮮なし仁 (「陽貨第十七」15)
(解説)
孔子の教え。「言葉を巧みに飾り立てたり、外見を善人らしく装うのは、「仁」すなわち他者を愛する気持ちは少ない」。 (「論語」加地伸行)
桑原の解説。
「巧」はよくする、「令」もよくするの意。
言葉が巧みで表情がほどがよい、それは「仁」すなわち誠実な人間愛、の乏しさということ。
孔子は礼楽を重んじながら、しかも表面的な行動の滑らかさ嫌い、いささか鈍重であっても毅然としたものへの好みをもっていたように思われると桑原はいう。
文学者である桑原はこうも言う。
文学を学ぶとは内容を伝達するだけでなく、言葉を巧みにすることであり、礼儀作法を知るとは容色を柔らげることではないのか (引用:「論語」桑原武夫)
家庭内において父母に対するとき、巧言令色は孔子の立場からはむしろほめるべきことではなかろうか(「為政第二」8)。
孔子は恋愛を語らないが、愛する異性に対して私たちは不可避的に巧言令色となってしまう。
人間性に明るい孔子が簡単に巧言令色を否定し去ったはずがないと桑原はいう。
この章は人生一般について言われたのではなく、官界、政界などにおいて下位者が上位の権力者に対する際の態度について述べたのであろうと桑原はみる。
ここでの仁は公の徳、つまり人民の幸福を願う心というほどの意味である。私的な愛情を媒介とせず、真実ないし誠実が問題がされる領域での話であるという。
君主などに言葉巧みに、顔色をやわらげて取り入るような人物に人民の心などわかるものではない、との訓戒だという。
孔子は社会生活全般において粗野を奨励したのではなく、それが一般原理として受け取られてしまい、甚だ悪い影響を残していると桑原はいう。
真実は堂々と公言すべきである。しかし、正しいことならどんなに不味い表現で仏頂面をしてわめいてもよい、ということには決してならない。
文明社会とは、内容の真実を美しい形式と調和させる努力ということではなかろうか。
素朴実在論を基調とする日本社会は、「巧言令色」を排撃するのあまり、個物における美的洗練は実現しえたけれども、社会的人間関係における洗練と調和を十分に育てえなかったのではなかろうか。秀れた言葉がまずい結果を生むことがあるのであると桑原は指摘する。
巧言令色、巧みな言葉を用い、表情をとりつくろって人に気に入られようとする者には、仁の心が欠けている。一方、剛毅木訥 仁に近しという。
このコロナ渦にあっては、剛毅木訥では少々堅苦し過ぎるようにも感じる。
内容の真実を美しい形式と調和させ、人々に伝えあう、そんな努力が必要になっているのかもしれない。それを「文明社会」という文学者桑原の言葉に説得力があるように感じる。
(参考文献)