舜(しゅん)に臣五人有りて、天下治まる。武王曰わく、予に乱臣十人有あり、と。
孔子曰わく、才難し、と。其れ然らずや。唐(とう)虞(ぐ)の際より、斯に於いて盛んなりと為すも、婦人有ありて、九人なるのみ。天下を三分して其の二を有(たも)つ。以て殷(いん)に服事す。周の徳は、至徳と謂う可(べ)きのみ。(「泰伯第八」20)
(解説)
「舜に五人のすぐれた臣がいて、天下がよく治まった。周の武王は、私には十人のすぐれた臣がいる、と言った。
孔子の談。才能のある人は、なかなか得難い。そのとおりではなかろうか。唐、虞の時代から下って、盛んな御世(みよ)になり、婦人一人を引けば、九人の能臣であった。天下を三分したとすると、その三分の二を支配下に置きつつも、殷王朝に服従していた。周の徳性は、至徳と評価すべきである。」(論語 加地伸行)
「唐」、天子「堯」の姓で陶唐
「虞」、「堯」の次の天子「舜」の姓で有虞。
「婦人」は、文母(武王の峩々の太姒(たいじ)、あるいは武王の后(きさき)の邑姜(ゆうきょう)のこと。
「武王」、殷王 紂(ちゅう)を倒して周王朝を建てた。
武王の父の「文王」の時代、周は版図を広げた。そのころ諸侯は、暴虐の紂王に見切りをつけ、次第に文王を頼るようになる。それでも文王は殷に対し反旗を翻すことなく、臣下であり続けた。一方、内政では仁政を敷きつつも、軍師に呂尚(太公望)を迎え、版図を広げたという。
その文王が老齢で没すると、「武王」は弟の周公旦や呂尚とともに、その事業を継承する。やがて、武王は、暴虐な振る舞いが収まらない主君 紂に対して反旗を翻し、殷周革命を起こす。ついに、牧野の戦いで、紂は大敗し滅亡、武王が天子となる。
武王の父「文王」、弟の「周公旦」とともに聖人という。
「関連文書」
(参考文献)