様々な造語を生んでは、その時代を表現しようとします。言葉はコミュニケーションの手段であり、それなくしては人間社会は成立しません。インターネットが登場し、世界がフラットにつながる情報社会になったのだから、それだけそれを表現する単語や語彙が必要となったということなのかもしれません。
さらにAI 人工知能が急速に普及し、変化スピードの早い時代にはあって、世界が同時に理解可能な言葉の量産が追い付かず、誤解もまた生じやすくなってはいないかと思ったりします。世界を俯瞰し、言葉化して理解することはますます難しくなっていくのでしょうか。
アート
「ダムタイプ|2022:remap」が、アーティゾン美術館で開催されているそうです。
記事よれば、展示の紹介文には「『ポスト・トゥルース』時代におけるコミュニケーションの方法や世界を知覚する方法について志向を促す本作」とあるそうです。
どうやら、私たちは「ポスト・トゥルース=知っているけど信じていない状況」の只中で、“私”が身体的知覚から生み出す「実感」の再構築から、世界の認識をやり直さなければならないのかもしれない。つまりそれは「知らないけど信じられる」感覚を自らの身体を通してレコーダーのように蓄積し、強固な“私”を構築することなのだ。まさにこれはアクチュアルなフィールドレコーディング的世界観であり、もはや私たち自身が「私を再生するメディア」となる地平なのである。(出所:Fashionsnap.com)
現代社会のモヤモヤをアートで表現しているということなのでしょうか。それは思考や感情のモヤモヤでもあるのかもしれません。
論語に学ぶ
子の韶(しょう)を謂う、美を尽くせり、又善を尽くせるなり、と。武を謂う、美を尽くせり、未だ善を尽くさざるなり、と。(「八佾第三」25)
天子舜を称えた楽曲「韶」を「美、その上、善」と孔子は評し、天子武王を称える曲である「武」は、「美、しかし、善は不十分」と評した。
「美」は大、「善」は小、あるいは「美」は甘美、「善」は高い品格と解釈するといいます。
また、武王は、周王朝を開きましたが、弟の周公が王朝を完成させたということから、「武曲」は、善が不十分とする解釈するそうです。
「ダムタイプ|2022:remap」を鑑賞していませんが、記事に映し出された画像やテキストから、現世の「武曲」とも感じます。この世の「善」とは何なのかと考えてしまいます。それが明確にできれば、現代社会も未完成から抜け出ることができるのでしょうか。
「参考文書」
メンバーが語る「ダムタイプの方法」。アーティゾン美術館の《2022: remap》はいかにつくられたのか|美術手帖