不確実で変化の激しい時代といわれ続けています。終わらない遠い異国での紛争を見ていると実感が増すばかりです。色んなことが起きます。新風が吹いて世界がガラッと変わればいいのでしょうが、その風が吹くにはもう少しがかかりそうな気もします。時間が必要なのかもしれません。しかし、それによって大きな犠牲を強いるのどうかとも感じたりします。
色々な問題が起きるのは世界ばかりでなく日本においても同様なのでしょう。傍若無人な振舞いが増え、倫理、規範意識は衰退し、不正も厭わない不健全な野心ばかりが跋扈しているようです。世間を騒がせる問題が顕在化するのもそれ故のことではないでしょうか。そんな悪い空気感を一掃してくれるものがあればいいのですが、残念ながらそれが今はないようです。
ちょっと希望を感じるのは日銀の金融政策の正常化でしょうか。正常化して変化するのではあれば、そこから新しさが生まれそうな気がします。ただそれなりに痛みは伴いそうですが。
一方、政府にも変化はあるようです。しかし、いつものフラフラで、人気取りの減税が批判されると、デフレからの脱却へと言い方が変わります。言葉は変化してもやっていることは同じで、おカネを湯水のように使うだけのようです。これから希望を感じないのかもしれません。変化させよう、より良くしようという姿勢がないようです。これは首相に限ったことではなく与党の特徴なのかもしれません。そんな中から、人々を魅了する変革のリーダーが誕生する訳もないのでしょう。
論語に学ぶ
君子は器にならず。(「為政第二」12)
君子 教養人は専門家ではない。器はすべて特定の用途のために作られ、それ以外の用途には適さない。舟は水に浮かべるが山に登れない、車は陸を行くが海は渡れない。君子は用途のせまい器のような専門家であってはならないと意味します。
一般的な専門家は、一技・一芸に秀でる人なのでしょうが、これに対して君子 教養人は、それに加えて道徳的価値を内包し大局を読むことができる人でもあるといいます。
「教養」とは、学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力であり、社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識を指すといいます。
首相や今問題となっている税金滞納の神田財務副大臣を見ていると、専門知識に加え、こうした素養が欠けてはいないでしょうか。首相ばかりでなく、それは野党においても同じなのかもしれません。また、企業の経営者においても同様なのでしょう。それ故に、停滞が続いているのかもしれません。変化して新しさを求めるには創造的活力が必要なのですから。
日本が元気さをとり戻することはあるのでしょうか。ゲームチェンジャーが求められているといいます。ゲームチェンジャーによって、新しいものが生まれれば、古きが壊され、これまでのものすべてが時代遅れになっていくといいます。壊さなければならないものが多々ありそうです。
解体的な出直しを求められた旧ジャニーズ事務所がその好例になればいいのかもしれません。
「参考文書」
シタデルのグリフィン氏「平和の配当終わり」数十年の高インフレも - Bloomberg
ブーム去り繰り上げ償還相次ぐ、ESG投信に「異変」-設定2年未満も - Bloomberg