子曰わく、聖人は吾得て之を見ず。君子者を見るを得ば、斯(すなわ)ち可なり。子曰わく、善人は吾得て之を見ず。恒有る者を見るを得ば、斯ち可なり。亡きなるに有りと為し、虚なるに盈(み)てりと為し、約なるに泰(たい)と為す。難(かた)いかな、恒有ること。(「述而第七」25)
(解説)
「孔子の教え。聖人、こういう人と出会うことはとてもできない。しかし、せめて君子 教養人と出会うことができれば、それでよしとしよう。また、孔子の教え。善人、こういう人と出会うことはとてもできない。しかし、せめて自分の気持ちに揺るぎのない者と出会うことができれば、それでよしとしよう。しかし、現実には、知識がないのにあるとしたり、人格は虚なのに充実しているように見せかけたり、貧しいのに豊かなまねをしたりしている。難しいなあ、心構えの揺るがぬあり方は。」(論語 加地伸行)
加地は以下のような解説も加える。
生まれたとき、人間は何も持っていないが、知識・学問を学んで知識人となることができ、同時に道徳的修養を積んで教養人となる。それが君子である。
その君子から、さらに知識・修養を深め、その究極に至ったものが聖人であるという。
一方、道徳的修養の修練を経てはいないが、他者に対して影響を与えるような善き人柄が生まれつきの人を善人という。ただし、知識獲得や道徳的訓練についての人間的努力が不十分であるので、聖人よりも格が下。善人は他者に影響を与えるが、「恒有る者」は他者に影響を及ぼせるほどの者ではない。ただし、少なくとも自己に関しては道徳的に一定して確かな者。
難いかな、恒有ること
亡きなるに有りと為し、虚なるに盈てりと為し、約なるに泰と為す
孔子の生きていた時代から変わっていないことが少し淋しい気になるが、それが現実、人間の性というものなのであろうか。
(参考文献)