子 斉(せい)に在りて、韶を聞くこと三月(さんげつ)、肉の味を知らず。曰わく、図らざりき、楽を為すの斯(ここ)に至らんとは、と。(「述而第七」13)
(解説)
「孔子が斉国に滞在しておられたとき、韶を学ばれること三か月、没頭しておられて食事の中身のことなど念頭になかった。そしておっしゃられた。「思いがけないことであった。楽曲の奥の深さがここまでとは」と。」(論語 加地伸行)
桑原の解説。
孔子が魯の内乱を避けて、当時の大国斉に亡命したのは前517年、孔子36歳のときだったという。そこの重臣高昭子に仕えていたという。「韶」は、舜が作ったとされる舞踊をともなう交響楽。孔子は「八佾第三」25で、「韶」は「美を尽くし、又た善を尽くせり」と賛美している。
はじめて斉の都でこの演奏を聞いたとき、その芸術的感動は、肉体的衝撃といってもよいほど、痛切なまた持続的なものであった。そのため以来三か月の間、食い物の味もわからなくなるほどであったという。
古代では肉は庶民などの口に入らない最高の食べ物であった。それを食べても、おいしくないほどだったというのである。肉の味とは、おそらく羊肉なら羊肉としての品質を味わい分けるということではなく、高粱の飯と羊肉との区別もつかなかった、といういことではなかろうか。そして、音楽のもつ作用がこれほどまでに大きいとは予期しなかった、と述懐したのである。
孔子の音楽好きということ、さらに彼のきわめて敏感な感覚が、よく現れているという。おそらく小国の田舎侍だった彼が、大国斉の豪華な宮廷で新しい音楽に触れて感動の極に達したのであるともいう。「三月、肉の味を知らず」とはいかにも古代人らしい直接的にして微妙な表現であるという。
このような孔子の言行を誰が記憶していて、誰が肉の味を知らずなどという名文句を想像したのであろうか、おそらく孔子自身の述懐であろうという。
このコロナ渦の時代、粛然としたい。
(参考文献)