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学徒出陣を経験した「お詫びの宰相」村山富市元首相死去:決断の政治家の功罪

 村山富市元首相が、老衰のため大分市内の病院で亡くなられました。享年101歳。

 1994年6月、日本社会党委員長から自社さ連立政権の内閣総理大臣に就任。55年体制の下で続いてきた保革対立を打ち破る功績を残されました。終戦50年の契機となる95年には、「村山談話」を閣議決定。日本の戦時中の侵略や植民地支配について初めて公式に謝罪し、中国や韓国をはじめとするアジア各国と、新たな関係を構築する功績も遺されました。

村山元首相が死去、101歳 自社さ連立、戦後50年で談話:時事ドットコム

 頻繁に東南アジア諸国に出張していたその当時、感じていたモヤモヤが村山さんの談話で区切りをつけられたことを思い出します。故人の功罪を改めて振り返ってみました。

 

 

戦争体験 学徒出陣

 学生時代に学徒出陣を経験し、軍隊での絶対服従の生活を体験。この戦争体験が、戦後における平和主義の原点となったそうです。

 多くの学生が戦場へと送られた学徒出陣。村山さんは明治大学在学中の1944年に軍隊に召集され、熊本や宮崎の部隊に配属されたそうです。軍隊では、上官の命令は絶対で、逆らえば殴られるなど厳しい規律が敷かれていました。この理不尽なまでの絶対服従の体験が、戦後の民主主義や平和主義に対する考え方を育むきっかけとなったと語っています。 

「他国に引きずられて戦争しちゃいかん」 元首相・村山富市さんが「平成最後の夏」に語っていた決意:東京新聞デジタル

僕が南熊本にいた時。隣の熊本が爆撃された。爆弾が雨あられ降ってくるのが見えた。日本は竹やりで爆弾をたたき落とす訓練しとったけど、そんなもん、どうにもならん。
熊本から逃げてきた女の人がいた。片一方の手には洗面器、もう片方の手には、鼻緒の切れたゲタを持っとる。取る物も取りあえず持って逃げてきたんだろうなあ。ぼうぜんとしとった。今でもあの姿は浮かんでくる。
戦争というものは、狂った人間がすること。正常な人間のすることじゃない。国全体が狂うんだから終戦のとき、負けたことは残念で、これから何をしたらええんやと思ったけど、ほっとした気分があったのも間違いじゃない。(出所:東京新聞

「他国に引きずられて日本が戦争に加担することはあり得る。絶対にしちゃいかん」という信念は、この戦争体験から生まれたものだそうです。政治活動では、この戦争体験を踏まえて、一貫して平和主義を訴え続けていました。

村山談話

 首相在任中の最大の功績は、「村山談話」の発表といわれます。1995年8月15日、戦後50周年に発表。「植民地支配と侵略」を認め、「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」を表明しました。

「未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」

 この談話は、戦後の日本の歴史認識の基礎となり、特にアジア諸国との関係改善に向けた画期的なものとして、国内外で高く評価されることになりました。

中国、村山元首相死去に哀悼 日中友好への貢献「永遠に記憶」 - 日本経済新聞

「周辺国と和解へ格別な努力」 韓国大統領、村山元首相死去に哀悼 - 日本経済新聞

危機管理

 一方で、1995年1月 阪神・淡路大震災発生時、政府の危機管理体制が機能せず、自衛隊災害派遣要請など初動対応が遅れたことが、被害を拡大させた一因として、厳しい批判を受けました。その後の地下鉄サリン事件では、宗教法人の活動を規制する宗教法人法を改正し、公共の安全と秩序維持に貢献したといわれます。

 

 

決断の政治家 異なるイデオロギーを乗り越えた連立政権

 社会党党首でありながら、現実的な安全保障政策への転換を決断した「決断の政治家」とも称されるそうです。社会党が掲げてきた自衛隊を「違憲」とする立場を転換し、自衛隊を「合憲」、日米安保体制を「堅持」と認め、日本の安全保障政策の継続性を確保しました。しかし、社会党の基本政策を転換したことで、党の支持層を混乱させ、社会党の急速な衰退を招く遠因となったといいます。

 自社さ連立では、イデオロギーの異なる自民党社会党が連立を組んだことで、政策決定に時間がかかり、政権運営の不安定さを露呈しました。

「首相就任は自らの意思ではなく、運命に背中を押されたような気がする」。突然の首相就任に対する心境を後年、講演などで語っていました。

総理になった時、亀井(静香)さんがこう言った。「あんたが総理になったのは天命だよ。だから諦めて腹決めてやりなさいよ」。諦めて総理をやるっちゅうのはめったにない話だけどな(笑)。確かに70議席しかない政党の代表が総理になるのはあり得んだろう。歴史的な必然性があると思ったわけだ。(出所:日経ビジネス

 首相就任時の所信表明演説では、「政治の改革に終わりというものはありません。私は、今後とも政治改革に力を注いでいく決意であります」と述べていました。「我々が目指すべき政治は、人にやさしい政治。安心できる政治であります」とも語っていました。

追悼・村山富市氏の「遺言」 戦後の日本を総括した首相:日経ビジネス電子版

だから戦後50年の節目に、村山内閣でないとできないことをやらせてもらった。戦後の後始末をきちっとつけて、日本が前に進む方向を定めた。「杖るは信に如くは莫し」。村山談話をこう締めくくったのは信用や信頼が一番大事だと。

それなのに、今になってまた右傾化してきた。僕が総理をしていた頃より、平和も民主主義も退化してきた

2009年に民主党の政権ができたね。あの時に僕は「これで日本の国はよくなるかもしれん」と思った。民主党がどうのこうのじゃなくて、有権者が選挙で変えたんじゃから。ただ民主党が期待に応えず、また自民党に戻った。

それでも国は選挙で変える以外ない。国民が主権者だという意識を持ってやっていく。選挙の時に、「あんたは集団的自衛権に賛成ですか、反対ですか」と聞いて、反対と言い切った人に票を入れる。国民が目覚めなければ、日本は変わらんでしょう。国民が変われば、リーダーも必ず変わる。(出所:日経ビジネス

 「杖(よ)るは信(しん)に如(し)くは莫(な)し」、「頼るべきものは、信義に勝るものはない」との意味です。「村山談話」では、「信義を施政の根幹とすること」を内外に表明する誓いの言葉として用いられたといいます。 

「自らの利を計らうためではなく、国家や大義のために」、村山さんこそ真のリーダーであったのかもしれません。「椅子の力とは全く関係なしに生きている人間」、地位や肩書(椅子)に支配されないその生き方も魅力的であったようです。

 

 

政界引退

 多くの人たちから『トンちゃん』と呼ばれ、親しまれていたそうです。何事にも努力家、質素な人だったとの声もあるようです。

 2000年に政界を引退。地元九州大分市へ。2024年に大分市の自宅で100歳を迎えたときは「100歳の実感はないが、無理をせず、自然体で暮らすことかな。1日1日家族と過ごせることを幸せに思っている」とコメントを寄せていたそうです。ご冥福をお祈りいたします。

論語にまとめ

伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)、旧悪を念(おも)わず、怨(うらみ)是用(もっ)て希(まれ)なり。 (「公冶長第五」23)

 伯夷と叔斉は、昔の恨みを心に留めなかった。だから、彼らを恨む者も少なかったのだと孔子は言いました。

 伯夷と叔斉の兄弟は、周王朝が殷を滅ぼしたことを不義として、周の粟を食べることを潔しとせず、首陽山に隠れて餓死したとされます。兄弟の美徳は、過去に受けた他人の悪意や過ちを根に持たず、清く生きた点にあるといいます。孔子は、他者の過ちをいつまでも恨むことなく、寛容な心で生きることの重要性を説きます。そのことが、結果として自らも人から恨まれることのない、清らかな人生を送ることにつながるといいます。 

 


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 こうして村山さんの功罪を振り返れば、日本の政治が退化しているようにも感じます。自民、維新の連立がまとまるような話が進んでいます。熱さも重要なことなのでしょうが、どうなのでしょうか。

 国民民主の代表は「鳶に油揚げをさらわれた」というところでしょうか。「対決より解決」といって他党を批判ばかりではなく、ここぞというときに決断できればよかったのではないでしょうか。今の政治家たちは、村山さんの姿勢に学ぶべきところが多々ありそうです。

 

「参考文書」

脳裏よぎった衆院解散 戦後処理問題に足跡―村山元首相:時事ドットコム

「トンちゃん、何事にも努力」 平和希求、悼む声相次ぐ―村山元首相の地元や沖縄:時事ドットコム