「リスキリング」、学び直しの積極的な取り組みが政府主導で呼びかけれています。
「新しい資本主義」、首相が掲げるその概念の「第1の柱」が人への投資と首相は強調しているそうです。時々でいうことが変っているように聞こえますが、それもまた首相らしいということなのでしょう。
岸田文雄首相、人への投資は「第1の柱」 官民でリスキリング支援: 日本経済新聞
首相は日本経済新聞社主催のシンポジウム「日経リスキリングサミット」に出席し、リスキリングの必要性について、「非連続なイノベーションの実現、長年にわたり大きな賃上げが実現しないという構造的な課題に対応するためにはリスキリングがカギになる」と指摘したといいます。
もしかして「リスキリング」、学び直しが必要なのは首相自身ということなのかもしれません。自ら率先してその成果を示していただけるとわかりやすくなるのでしょう。
「リスキリング」とは、企業などの働き手が市場のニーズに対応できるよう新たなスキルを身につけることを指すと記事では指摘します。
デジタル化の急速な進展で既存の技能が通用しなくなっても、リスキリングを通じて得た技術で新たな職場へ移りやすくなる効果を期待する。スキルの高い人材に成長産業への円滑な労働移動を促し、持続的な賃上げとともに社会全体の生産性の向上につなげる狙いがある。(出所:日本経済新聞)
言わんとすることは理解はできますが、「学び」とはそういうことなのかと、疑問を感じます。
リスキリングへの公的支援など人への投資に5年で1兆円を投じると、首相は所信表明演説で表明し、「賃上げと労働移動の円滑化、人への投資という3つの課題の一体的改革を進める」とも訴えていました。
論語に学ぶ
古(いにしえ)の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす。(「憲問第十四」24)
昔の学ぶ者は、自己を鍛えるために学ぶことに努めていたが、今は、他人から名声を得るために学ぶ者がいると意味します。
学問をしていても人に知られない、つまり自分の能力が社会に認められないことは往々にしてあります。学問の成果は「自己の人格や生を高めるという自己目的的なものであって、名利には存しない」と和辻哲郎はいいます。
孔子の学びは名利を求めはしないが、広く社会のためにという意味を持っていたといいます。それが「仁」の精神につながっていくといいます。
日本経済新聞によると、新しいスキルや知らない領域の知識を学ぶ「一般的なリスキリング経験」のある人は3割前後にとどまっているそうです。
デジタル化により多くの企業で新たな成長のために社員の学び直しが急務となっている。それでもリスキリングを通じて競争力を引き上げようという意識はまだ高くない。(出所:日本経済新聞)
「学問をすれば誰でもみな偉い人物になれる」という一種の迷信のために、自分の境遇や生活の状態も顧みず、分不相応の学問をしてしまう。その結果、後悔するようなことになるのだ」というのは渋沢栄一。
「これだ」という目的がなく、何となく学問をした結果、実際に社会に出てから、「自分は何のために学問してきたのだろう」というような疑問に襲われる青年が少ないと栄一はいい、「ただ学問のための学問をしている輩が多い」といいます。
「底の浅い虚栄心のために、学問を修める方法を間違ってしまうと、その青年自身の身の振り方を誤ってしまうだけではなく、国家の活力衰退を招くもとになってしまうのである」と栄一は断じています。
人が学びを通して知識だけでなく、人格を高めることができれば、必然魅力ある人間になっていくのではないでしょうか。「学び」とは元来そういうものであって、そうした学びを続ける人が多く集まる企業が魅力的になっていくことも、また必然なのでしょう。
「古の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす」。
デジタルが求められるようになったから学ぶのではなく、社会をより良くするための手段としてデジタルを学ぶ方が、自然な流れのような気がします。また、常に社会を良くしていくための学びを続けている人であれば、その流れの中でデジタルの有用性に気づき、他の人より早く学びを始めていたのでしょう。
今からでも遅くはないのかもしれません。デジタルの学びをきっかけにして、 自らのため、そして社会のためという問いがあれば、学びの中から新たな発見があるのではないでしょうか。
☆
もっとデジタルに精通し、その有用性を誰よりも首相が理解しているなら、政府のデジタル改革が一気に進むのではないかと感じます。行政が効率化し、少ない費用、少ない人員で今以上の成果を出せるようにするのも政府の使命のような気がします。
首相だけではなく、政治家にもリスキリングが求められているのでしょう。