「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

どうして同じような問題が続けて起きるのか、スシローの場合、国の場合

 

 回転すしのスシローで問題が相次いでいます。うに・かにの問題に続いて、今度はビールです。キャンペーン開始前にポスターを掲示して物議を醸し、謝罪したかと思えば、半額キャンペーンが始まると、また品切れ、あげくに量が少ないとも指摘される始末、なぜにこうも問題が続くのでしょうか。

スシロー、“ビール半額”で今度は「ジョッキが小さい」との報告? 運営元「内容量に差異はない」と否定(1/2 ページ) - ねとらぼ

 意図的に問題を起こすはずもないので、やはりどこか注意散漫、気の緩みでもあるのでしょうか。マネジメントが機能していないということなのかもしれません。このような状況で信頼回復はできるのでしょうか。

 

 

論語に学ぶ

子 罕(まれ)に利を言うとき、命(めい)と与(とも)に、仁と与にす。(「子罕第九」1)

 萩生徂徠によれば、孔子もたまに「利」に言及するが、その場合には必ず「命」あるいは「仁」と与にしたと読むといいます。孔子の目指すものは、安民であって、それに敬天を加えて「道」とし、「命」と「仁」とは「君子の君子たるゆえん」であり、これらをまれにしか言わなかったという道理はないといいます。

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安民とは天下のために利をはかることである」。

ただ、「利」には「大利」と「小利」があることを知らねばならない。一身の利益をはかるごときは小利である。君子は大利をはかるべきであって、もし道が民を利することのないものであるならば、それは「道」というに足らない。(引用:「論語桑原武夫

「お客さま不在」、お客様にサービスを提供して、喜んで満足いただくということを忘れ、ただ利益のみの追求するようになってしまったということなのでしょうか。それでは徂徠が指摘する「小利」に走っていることになり、道から外れることになります。もしかしたら、それをお客さまが感じとっているのかもしれません。

 

 

 多くの国民が反対にしているにもかかわらず、国葬閣議決定されました。早速準備が始まったようですが、そうなれば、また問題が指摘されるようです。

<独自>プーチン氏の国葬出席、政府認めず 事実上の入国禁止対象 - 産経ニュース

 やるならやるでいいけれども、やる以上はやるべきことをきちんとやれということでしょうか。プーチン大統領を招待すべきとの声が上がっているようです。

 スシローのケースと同じように、政府の姿勢が「道」から外れていると、みなが感じるのでしょうか。「オポチュニズム」、ご都合主義のように見えるのかもしれません。

 

 

 子 疾(や)みて病(あつ)し。子路 門人をして臣為(た)らしむ。病きこと間のときに曰わく、久しいかな、由(ゆう)の詐(いつわ)りを行ないこと。臣無くして臣有りと為す。吾 誰をか欺(あざむ)かん。天を欺かんや。且(か)つ予(よ)其れ臣の手に死なん与(よ)りは、寧(むし)ろ二三子(にさんし)の手に死すること無からんや。且つ予 縦(たと)い大葬(たいそう)を得ざるとも、予 道路に死なんや、と。(「子罕第九」12)

 孔子が危篤状態に陥ったとき、弟子の子路が先生はもう見込みがないと思い、いつもの素直でややせっかちな善意から葬式の準備を考えたそうです。死者が諸侯や大夫である場合には、その家臣がいろいろの職務を分担する。孔子はかつて魯の大夫だったが、今は浪々の身である。それを子路は、これほどの大先生を平民扱いできるものか、大夫の格式の葬式をすべきであると考えて、弟子たちを大夫の家臣のように仕立てて配置したといいます。

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 孔子が危篤状態からや持ち直し、ものがいえるようになると、子路の「詐」ごまかし、インチキを咎めました。子路たちが世間を欺くのではなく、死んだ私が世人を欺き、天を欺くことになる。そんなことができるかと、孔子は自分の問題としました。

そうした偽の家臣に手をとられて死ぬより、むしろ自分の弟子に手をとられて死にたい。手をとるというのは、臨終にさいして、古代の礼法では、親しい者四人が両手両足を持ったのだという。

たとえ立派な葬式などしてもらわなくとも、この私が道端で野垂れ死することもあるまいさ、と虚飾を否定する厳しさの中にも最後はややユーモアにやわらかい語調でいったのであろう。(引用:「論語桑原武夫

 この章は、子路とこれに同調した多数の弟子をたしなめたのであって、深く叱責したのではないといいます。

 

 

 さて、故人は今のゴタゴタをどう感じるのでしょうか。また、どんな形態を望んでいたのでしょうか。

 孔子の弟子曾子は、「終わりを慎み遠きを追えば、民の徳 厚きに帰す(「学而第一」9)」といいました。

 喪に際して、まごころを尽くすのであれば、民の道徳心もまたすぐれたものになっていくと意味します。

「こんな時に真似することもなかろう。儀式を利用するのでなく、ちゃんと見送ってくれ」と故人が嘆くことはないのでしょうか。

 何事も「礼」に則り対応できれば、問題になることはないのでしょう。

 

「参考文書」

7 月 13 日からの 何杯飲んでも「生ビールジョッキ」半額キャンペーンに関するお詫びと再発防止策等のお知らせ(続報) 株式会社 FOOD & LIFE COMPANIES