「相手の立場になって考えてみる」、そんな言葉をよく耳にします。時に、この言葉で、他者からそんなアドバイスをされることもあります。しかし、よくよく考えてみれば、これほど実践が難しいことはないのかもしれません。さて、どのようにして人は、その行為を相手に伝えるべきなのでしょうか。
「最近の若者は…」が若者の心に響かない深い理由 | 読書 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
「あなたが好きそうなケーキ屋さんを見つけたんだけど、行きませんか」という表現が多用されるようになっているようです。
また、「みんながそう思っている」「最近の若者は.....」など、それぞれの事情を考慮しない言葉を目にする機会が増えていると、東洋経済オンラインはいいます。
「みんなが思っている」と言うことは、同調圧力で他人を縛りつけてしまうような、実はかなり強烈な言い方だと意識する必要があるわけです。(出所:東洋経済オンライン)
相手の気持ちや感情を正しく理解できる人などいないはずです。私たちができることは、推測することだけです。推測である以上、当たることもあれば、外れることもあります。相手の立場になって考えるのも、そう簡単なことではないのですと、記事も指摘しています。
論語に学ぶ
子は四を以て教う、文、行、忠、信。(「述而第七」24)
孔子は、文芸、徳行、誠意、信義の四つに基づいて教えていたといいます。
自己に対する「文」:知識・学問と、「行」:道徳・修養、そして、他者に対する「忠」:まごころの表現、「信」:まごころの実質化
「まごころ」とは、偽りや飾りのない心。真剣につくす心を意味します。また、相手の立場になるのであれば、「思いやり」の心があればいいのかもしれません。
「思いやり」とは、他人の身の上や心情に心を配ること。また、その気持ち。同情と意味するそうです。
相手に対して、「思いやり」をもって「まごころ」を尽くすことが、相手の立場になって考えることなのかもしれません。
「其の之を言いて怍(は)じざれば、則ち之を為すこと難し」(「憲問第十四」20)といいます。
「内実のないことを言うのを恥じない者は、実行してもとてもできはしない」と意味します。
まごころではなく、取り繕ろうとするのであれば、とても相手の立場に立つことなどはできないのでしょう。逆に相手の心を閉ざすだけのことになるのかもしれません。
孔子はこうも言います。「君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、亦(また)以て畔(そむ)かざる可きか」(「雍也第六」27)。
君子は、まず広く知識を学習し、次いでそれらを帰納してゆくときに礼に基づくならば、誤ることはない」と意味します。
日常の挨拶にも「礼」という言葉が使われます。ただこのとき、相手を思いやる心がなければ、それは単なる所作になってしまい、本来の「礼」ではないといいます。「礼」に心がこもらなければ、わざとらしくなり、「慇懃無礼」というように失礼になるといいます。
あるサービスで不明点があって、コールセンターに電話をかけ質問しようとすると、ばか丁寧な応対の割には、こちらの質問に答えてくれないケースがあります。勝手にこちらの要望を推察してくれるのがわかるのですが、それがまさに「慇懃無礼」と感じたりします。
「礼」とは、他人に対する思いやりを目に見える形で表現することである。それは物事の道理を当然のこととして、尊重することである。(中略)
「礼は寛容にして慈悲があり、礼は人を羨まず、自慢せず、思い上がらない。自分自身の利益を求めず、怒ることなく、人を疑わない」といえるだろう。(引用:「日本人の品格」岬龍一郎)
相手の気持ちを想像できなくても、まごころを込めて「礼」を尽くせば、相手には失礼になることはなく、また、礼を尽くすることで、相手の気持ちに寛容になって、理解が生まれるのかもしれません。
マナー違反を平気でしてしまっているうちは、相手の立場に立って考えることは難しいことではないでしょうか。マナー違反をすれば、自分以外の他者が嫌な思いするのですから。