「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

失われた30年で失くしたもの、なくならない凄惨な事件 ~ 炉辺閑話 #80

 

 新しい年を迎えました。今年こそコロナパンデミックが収まり、平穏な日々がとり戻せればと願います。

 昨年を振り返れば、大阪や茨城県古河で凄惨な事件があったことが思い出されます。惨事を繰り返さない対策が求められています。今回の大阪の事件も京アニを模倣しているといわれます。しかし、どんなに規制を強化しても、同じような行為に及ぶ人が出てしまえば、また同じことが繰り返されることになります。こうした惨事を繰り返さないためには、どうすればいいのでしょうか。  

 

失われた30年で、失したもの

「賢なるかな回や、一簞の食、一瓢の飲、陋巷(ろうこう)に在り。人は其の憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」と、論語「雍也第六」11にあります。

 この章は、孔子の弟子の顔回(顔淵)が楽しんで簡素な学究生活する姿を描いています。渋沢栄一によれば、顔回の如く一簞の食、一瓢の飲に満足して決して富もうというような不所存を起しては相成らないなぞと、孔子が説いているのではなく、顔回が富の誘惑に打ち克って、簡易生活に満足し、志を曲げることなく、富貴の上に超然として道を楽しんでいることを賞められたのであるといいます。

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貧困、富める人を攻撃せられたものであると思ったら、それは大なる間違いである。

普通大抵の人間ならばその苦みに堪えかね、直に富貴の誘惑に敗けてしまうが、顔回はよくその憂いを忍び、断固として威武にも屈せず、富貴にも冒されなかつたのである。これが顔回の賢かったところだ。(参考:「実験論語処世談」 渋沢栄一記念財団

 

 さらに栄一は、「世間のことを生半可に噛った者は、何よりも富貴を重んじて権勢のあるところ、金銭のあるところに就くのを、処世上の最も賢き手段であるかの如くに思っているが、実はそうで無い。初めのうちは賢そうに見えても、富貴のために志を曲げるような人は、末になれば、また富貴の為に如何なる事も営むようになり、遂には身を亡ぼすに至るものだ」といいます。

 

 

「利己一点張りになり、己れの利を謀るにのみ汲々し、一にも二にも我が富貴ばかりを心懸けておったら、富貴栄達を思うままに遂げ得られそうなものだが、結果は却って、それと正反対になるものである。我利々々主義の者は、自分だけは利己主義を通そうとしても世の中はそれでは承知しないものだ。利己主義一点張の人には、世間が力添えをしてくれないことが常だから、自然世の中に立ち得られ無くなってしまう」ともいいます。

「失われた30年」といわるようになって、経済、経済との声が大きくなり、そればかりに汲々となり、人の心に変化が起きてしまったのかもしれません。経世済民であるはずの経済がいつしか、富貴を追い求めることにとってかわり、民を済(すく)うことが忘れられてしまったのではないでしょうか。たいへん危険なことのように思われます。  

 

論語の教え

「疏食を飯らい、水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみ亦其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し」と、「述而第七」15にあります。

論語と算盤」を掲げる栄一は、孔子が粗衣疏食を勧めるはずもなく、そうした生活の中でしか、真正の楽しみは得られないものだと説くはずもないといいます。

「疏食を飯らい……」からの前半の句は、後半の「不義にして富み且つ貴きは、我れに於いて浮雲の如し」に対照するために用いたもので、不義を行って富貴利達を求めようとするのは人として恥ずべきであって、楽しいわけがないといっているのだと主張します。

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 結局は富貴利達も自己満足であって、それでは「私欲を捨て、公共のために尽くす」という義には敵わないということでしょうか。

「義」とは、道理に適い、人道に従い、正しい筋道でものごとを進めていくことであるはずです。

 大阪の事件の容疑者が亡くなったとそうです。動機など事件の全容の解明が困難になったといわれます。ただまたもこうした凄惨な事件が起きたという現実だけは残ります。事件が起きるたびにルールやしくみで対策しようとしますが、繰り返し事件が起きています。こうしたことが起こらない社会にしていかなければならないのでしょう。