「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

なぜ賃上げできないのか、賃上げがあたり前になることはあるのだろうか

 

 今年度の補正予算が今日20日に成立する。保育や介護、看護職などの賃上げもこの予算に盛り込まれている。これを機に広範な職種においても賃上げが進むことにつながればいいのだろう。

 メディア記事を目を通せば、賃上げについての言及が増えている。これまでいかに賃上げがおろそかにされてきたということなのだろう。問題、課題を指摘する記事が多いようだ。賃上げしなければならないという雰囲気が醸成されていけば、賃金の改善はあるのかもしれない。

 売上が増え、利益が増大するのがいいのだろうが、上手くいかなければ、生産性向上、デジタル化の推進などが賃上げの原資になったりするのだろう。結局、何かをしなければ、賃上げにつながりそうにない。ただ、なぜこうも賃上げから縁遠くなってしまったのだろうか。

 

 

己の欲せざる所は、人に施すことなかれ

 昨日の青天を衝けでは、渋沢栄一の米サンフランシスコでの演説のなかで、「己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ」と、論語にある言葉を引用された。

 秀才の子貢が、「一言にして以て終身 之を行なう可き者ありや」と、孔子に質問すると、「それ恕(じょ)か」と答え、「己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ」と続けた(「衛霊公第十五」24)。

 この言葉くらいのことであれば、さほど難しいことではないのではないかと栄一はいう。「我が身をつねって、他人の痛さを知れ」という言葉がある通りで、自分の身をつねってみれば痛い事は直ぐに知れるから少し情のある人間ならば、他人の身をつねるような事の出来るものでないという。

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 この栄一のたとえからすれば、賃上げをしないことは従業員をつねっているようなものかもしれない。従業員ばかりに痛みを求めていては、孔子のいう「恕」、他者へのおもいやりのかけらもない。

 しかし、人は平気で人をつねったり、つねられたりしているのかもしれない。

論語の教え

「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」と同じような意味をなす言葉が、公冶長第五」12 にある。

 同じく子貢が、「我 人の諸(これ)を我に加うるを欲せざるや、吾も亦(また)諸を人に加うること無からんと欲す」というと、孔子が、「賜(し)や、爾(なんじ)の及ぶ所非(あら)ざるなり」と答える。

 子貢が「他人が良くないことを私に押しつけてくるのを望みませんので、同じく私も良くないことを他人に加えることはすまいと思っております」というと、孔子は「賜よ、お前にはそれはまだまだというところだな」と答えたという。

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 栄一によれば、「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」が、主眼の要素となるものは自分であるが、「我 人の諸を我に加うるを欲せざるや、吾も亦、諸を人に加うること無からんと欲す」という観念では、他人になるという。

 自己を主として他人に非義を施さぬだけならば、少しく自制の念があつて「恕」の道を弁え、極端に走ることを慎めば、誰にでも容易に行なうことができるが、他人を主にし、他人をして非義を我に加えられないようにすると共に、我れもまた他人に非義を加えないようになることは、余程人格に大きい所のある仁者で無ければ到底出来ぬ業であるという。

 

 

 みなが子貢と同じような気持ちを持つもなのであろうが、逆説的ではあるが、人はそれだけ容易に非義を働いてしまうということなのかもしれないし、他者からの非義を許してしまうともいえそうだ。

 他者からの非義を受けないようにするためには、己の「仁」という至徳を高めなければならないと栄一はいう。

 様々な専門家たちがそれぞれに意見を述べる。ただシンプルに、従業員の努力があって、業績が改善したなら、その努力を認め、それに報いることが普通になればいいのだろう。そうできなる仕組みがないのが不思議でならない。「仁」を理解し、それを仕組みにすることが求められている。