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ちょっと気になる斗筲の人たちの国政、どうなるか10万円の給付金 ~ 炉辺閑話 #71

 

 国会での首相の所信表明演説も終わり、にわかに国政が動き出しているようです。大臣が記者会見で、意見を述べたり、政権与党でも動きがあるといいます。

 官房長官は記者会見で、多額の事務手数料で批判のあった18歳以下への現金・クーポン給付について言及し、10万円全額現金で支給することも可能だとの見解を示したそうです。

10万円給付、全額現金も可能 政府:時事ドットコム

「(5万円相当のクーポン分は)クーポン給付を基本に検討いただきたいが、地方自治体の実情に応じて現金給付も可能とする」と述べた。(出所:JIJI.COM)

 JIJI.COMによると、クーポン給付の目的を「地域の創意工夫を促し、民間事業者の振興や新たな子育てサービスの創出、消費の下支えなどにつながることも期待される」と説明、理解を求めたそうです。

 

 

 元々この施策の目的は何であったのでしょうか。時間が経過すれば、色々と目的が付与されていないでしょうか。そうなるから様々な憶測を呼び、不信が募るのかもしれません。助平根性は慎むべきではないでしょうか。

 可能な限り迅速に、かかる経費は徹底に抑えるのが肝要なのでしょう。その給付金の使途は国民を信用し任せる。貯蓄に回ろうが、遊興費に使われようが、目的からすれば、必要な人の手元に一刻も早く届けることが大事なことではないでしょうか。

斗筲の人

 弟子の子貢が孔子に、どのような人を「士」と呼ぶべきでしょうかと問うと、「己を行なうに恥ずる有り。四方に使いして、君命を辱(はずかし)めず。士と謂う可し」と、孔子は答えます。

 さらに「宗族(そうぞく)孝を称し、郷党(きょうとう) 弟を称す」といい、「言えば必ず信、行なえば必ず果。硜硜然(こうこうぜん)として小人なるかな。抑々(そもそも)亦(また)以て次と為す可し」と答えています。

 すると、子貢は「今の政に従う者は如何か」と質問し、孔子は「噫(ああ)、斗筲(としょう)の人、何ぞ算(かぞ)うるに足らん」と述べたといいます。(「子路第十三」20)

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 己れの行いが正しくなければ潔く恥じ、外に使いをしては君命を恥かしめない、そうした者を「士」と云う。その次をいうのであれば、「親族がその孝を称め、郷党がその弟を称める人であれば、これまた「士」と云うことが出来るであろう」。

 さらにその次は「ひとたび言ったことは必ず真実であり、行うことは必ず果たすと云うのは、時に応じて処することに欠き、小石の堅いようなもので大用をすることは出来ないけれども、志操堅く己れを守ることが堅いから、これもまた「士」と云うことが出来るであろうと、この章の意味を渋沢栄一が解説しています。

 

 

「翻って今日の日本の政治を見たならば、孔子は何と云うのであろうか」と、栄一がいいます。「勿論推測するより外ないが、孔子はお世辞を云うとは思われないから、斗筲の人といえる人さえもいないというのはでないか」といいます。いつの時代も、優れた為政者は稀にしかいないということなのかもしれません。

「斗」も「筲」ともに小さな器のことで、「斗筲の人」とは、その程度の小人物という意味で、度量の小さいつまらない人物。小人物を意味します。

二枚舌か

 与党自民党で、「財政健全化推進本部」を立ち上げたといいます。

自民に首相直轄の財政健全化推進本部、年明けにPB目標議論 | ロイター

 岸田首相(党総裁)の直轄で、この会合で首相は「財政は国の信頼の礎」と述べ、「コロナ対策と中長期的な財政健全化は決して矛盾はしない」と強調、年明けにも基礎的財政収支プライマリーバランス、PB)黒字化を目指す財政健全化目標年度の検証議論を行うと述べたそうです。

 その一方で、党内にはMMT 現代貨幣理論の信奉者もいて、こちらも「財政政策検討本部」と称する会合を初開催したといいます。

 MMTとは、これまでの積極財政派の根拠となっている国債の無制限発行を可能とする理論です。

論語の教え

「中行(ちゅうこう)を得て之に与(くみ)せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有り」と、「子路第十三」21 にあります。

 中道を得た人は少いことを孔子が嘆いたのだと渋沢栄一は解説します。

孔子は中道を得た人は至って少いものであるから、共に学ぶことが出来ない。もし他にこれを求めると狂者か狷者の二者に過ぎない。そして狂者は志は大で進取の念が盛んであり、狷者はその知は未だ足らないが志操堅くして不善をなさないのである。いわゆる、狂者は過ぎ、狷者は及ばざることである。(参考:「実験論語処世談」 渋沢栄一記念財団

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 画然と、これは狂でそれは狷であると云うことは出来ないと、栄一はいいます。しかし、一方は進み、一方は守りに傾くものであるから、これが一方に偏ると孔子のいう中道を得ることは出来ないことになってしまうともいいます。よって、あまり進みもしない、また守りに陥ると云うことのないようにすべきであると指摘しています。

 やはり極端になることは慎み、その中間、中道を常に求めるべきなのでしょう。あまりにも極端に走るようであれば、それを薄めようと、あまり好まれない変革や改革が必要になるのではないでしょうか。さてさてどうなっていくのでしょうか。内に外に難題が山積みのようです。