「温暖化のおかげで北海道のコメがうまくなった」と、麻生太郎自民党副総裁が北海道小樽市の街頭演説で発言したという。
温暖化でコメうまくなった 北海道の街頭演説で麻生副総裁 | 共同通信
麻生氏は集まった有権者を前に「温暖化と言うと悪いことしか書いていないが、いいことがある」と主張。北海道産のコメについて「昔、『やっかいどう米』と言うほど売れないコメだったが、うまくなった。農家のおかげか、違う。温度が上がったからだ。それを輸出している。これが現実だ」などと述べた。(出所:共同通信)
前後の文脈がわからないので、何ともいえないが、物議を醸しだそうな発言だ。
ただ意図もわからぬでもない。現実的にみて、現実的に考えた方がよいといいたいのだろうか。
温暖化対策を実行せねばならないが、仮に強力に実行できても、現実には温度上昇した環境はしばらく残る。それだから、産業もそれに適応する必要があるとも受け取れる。真意は定かではないが、麻生氏らしい表現なのかもしれない。
「祝鮀(しゅくだ)の佞(ねい)有らざれば、宋朝の美有るとも、難(かた)いかな、今の世に免(まぬか)るること」と、論語「雍也第六」16 にある。
麻生氏は祝鮀なのかもしれない。「佞=口才」がなければ、政治の世界で生きていけないのかもしれない。
論語の教え
管仲、名宰相と言われ、たびたび「論語」にも登場するがその評価は分かれる。
弟子の子貢は、「管仲(かんちゅう)は仁者にあらず」といい、国主 桓公(かんこう)が、管仲が仕える公子糾(こうしきゅう)を殺しても、その仇であるはずの桓公に仕えて、これを助けたことを非難する。
すると孔子は、「管仲、桓公を相(たす)け、諸侯に覇たらしめ、天下を一匡(いっきょう)す。民 今に到るまで、其の賜(たまもの)を受く。管仲微(な)かりせば、吾其れ髪を被(こうむ)り衽(じん)を左にせん。豈(あに)匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)の諒(まこと)を為して、自ら溝涜(こうとく)に経(くび)れて知る莫(な)きが若くならんや」と、「憲問第十四」17 にある。
渋沢栄一はこう解す。
管仲が桓公の相となって、桓公が諸侯の長となり得たし、周室を尊んで君臣の分を正しくし天下を正しくした。そして、民は今に到るまでもその恩恵を受けている。
もし、その時に管仲が居なかったならば、夷狄に侵略されて仕舞い、髪は結ばず、ざんばら髪となり、衣服も左前に着るような夷狄の民となっていなければならなかった。
そうならずに済んだのは、管仲の力である。それは実に、民には大功であると言はねばならぬ、これをどうして仁者でないと云うことが出来よう。
匹夫匹婦が小さな信の為に自ら溝の中で縊死して、誰もその死を知らなかつたものと、どうして比較することが出来ようと、孔子がいった。(参考:「実験論語処世談」 渋沢栄一記念財団)
「公子糾の為に死ぬことは「信」であるにしても、それは小さな信であるから、後の大功とは比べものにならん」と、栄一は指摘する。
気候変動に腹を立て、その対策を求めるのも「信」ではあるが、その一方で、それを是として、その環境に適応しくことも必要である。それは否定し得ない現実だし、その上で、どう気候変動の緩和に取り組むべきと、麻生氏は暗にそういっているのかもしれない。
<視点>衆院選で気候変動対策議論を、次世代への責任考えて デジタル編集部・福岡範行:東京新聞 TOKYO Web
2050年までに温室効果ガス排出を「実質ゼロ」にする目標を掲げてから初めての衆院選を迎え、「その目標達成のための具体的な議論が不十分なままだ」というのは東京新聞。
「十人十色」、この世には様々な人が存在する。批判だけをする人、現実的に考える人、改革しようとする人等々、そうした人々が雑多に存在することで、この世が成り立っている。そして、ある時は保守的な志向が強まったり、またある時はリベラル色が強まったり、時々に移ろいながら時代は進んでいく。
☆
孔子は「管仲の器小なるかな」といい、「管氏にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん」といったと、「八佾第三」22 にある。
まるで二枚舌のような孔子の発言ではあるが、何が何でも国主と同じことをしたがる管仲の一面を非礼と断じている。
どんなに優れた人物であっても完璧な人などいないということなのかもしれない。
衆院選 「脱炭素社会」に向けたエネルギー政策 各党の主張は | 2021衆院選 | NHKニュース
足元のエネルギー不足から現実的に気候変動を考えば、既得権益を守ることに執着しているように見られ、気候変動対策を急ごうとすれば、エネルギー危機が起こりかねず、無責任と言われても仕方がないのかもしれない。難しい問題である。それでも誰かがその時ベターと思われる選択をして、ことを前に進めていくしかない。それがまた現実である。
「100%自然エネルギー」は理想であるが、その理想を実現できる手段を検討すべきではあるが、今それにこだわって、その他すべてを無に帰することは現実的ではないともいえるのかもしれない。