緊急事態宣言などが解除され、各地域での制限措置が解除されています。徐々に経済活動も再開していくのでしょうが、どうも今年の忘年会も異変がありそうです。
TSR東京商工リサーチが、今年度の忘年会や新年会開催に関するアンケート調査を行い、その結果を公表しています。調査期間は10月1日~11日だったそうです。
忘・新年会離れが深刻、企業の7割が「開催しない」 : 東京商工リサーチ
TSRによれば、企業の7割が開催予定がないと回答したといいます。昨年12月実施のアンケート調査では「開催しない」が94.2%で、1年間で23.8ポイント回復したそうですが、感染防止の意識が広がり、宴会を控える企業が多く、今年も宴会需要は収縮、飲食業や関連業者のダメージは続きそうといっています。
立場立場で、この受けとめは異なったりするのでしょうか。
飲食店にとっては残念なことであろうし、宴会中止でほっとする人もいるのでしょう。また、残念と感じる人もいるかもしれません。
元々こうした宴席が設けられたのは、その当時の風習に合わせ、慰労目的だったのでしょうか。時代も変われば風習も変わるので形骸化していくのも致し方ないのかもしれません。時代にあった慰労の仕方があるのでしょう。それにしても、コロナでこうしたことが加速することに不思議さを感じたりします。
今であれば、慰労目的の画一的な宴席でさえも、親切の押売りのように感じる人が多いのかもしれません。人が交るにしても、その親密の度合に深浅、厚薄があるので、それに合わせることを求めるのが現代なのかもしれません。
論語の教え
ある人が、老子の言葉である「徳を以て怨みに報いる」はどうかと孔子に尋ねました。
すると、孔子は、「何を以て徳に報いん。直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いん」と答えたと、「憲問第十四」34 にあります。
これはこうなければならぬと積極的に説くと、どうしても極端に走るようなことになってしまうので、孔子は事に対するに斟酌の心を失わない、平和、温厚に従うと栄一は解説します。
故に、「怨みに報いるに徳を以てするならば、徳に報いるに何を以てするかと反問して、正しき心を以て、怨むべきは怨み、徳に報いるに徳を以てするがよい」といっているといいます。
何ごとも、無理強いはよくないということなのでしょう。労をねぎらうにしても、恩着せがましくなってしまえば、元も子もありません。栄一がいうように、中庸、平和、温厚の気持ちをもってが、何よりなのかもしれません。
「君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔(たす)く」と、「顔淵第十二」24 にあります。
これは、学をなす為めに友を集めるのは、仁を輔けて、己れの徳をなす所以であると説いていると、栄一はいいます。
つまり、友と交わるのは己の徳をなすためといいます。
現代の宴席はそう感じることができなくなってしまっているから、また廃れている行く一因になっているのかもしれません。
渋沢栄一の回顧録に九代目市川団十郎の話があります。「単に芸を職として秀れた技倆があつたのみならず、芸に游ぶ事のできた立派な人物であったように想われる」と、栄一は団十郎を絶賛しています。
太古の芸人は、尊敬されるどころか、「河原者」と呼ばれ、軽んぜられていた。しかし、この流れを一変し、今日のように芸人に敬意を払い、俳優をも尊敬するになったのは、全く九代目市川団十郎の力であると栄一はいいます。近代語でいえば、「団十郎は覚醒した人であった」そうです。
団十郎以前の芸人が賤しめられたのは、芸人の間にも悪い風習があつたからで、俳優のみならず総じて当時の芸人はみな下品この上無く、野卑猥褻が殆ど芸人の生命であるかの如き観を呈し、座敷を壊せぬようでは未だ一人前の芸人で無いとされたほどのものである。随つて当時の俳優其他の芸人は、座敷へ現るようなことがあれば如何にしたら座敷を壊せるだらうかと其ればかりに苦心し、野卑猥褻の談話を連発して客を可笑しがらせ、一座が興に乗つて無礼講になるのを視、自分の技倆が芸人として一人前になつたなんかと言つて誇つたものだ。(参考:「実験論語処世談」渋沢栄一記念財団)
「こんなことでは、永遠に俳優が世間より尊敬される時代など来るものではない」と考えた団十郎は、「まず俳優の位置を向上させ、世間より野卑に見られないようにと思って、自ら事謹厳、客の前へでも野卑猥褻の談話や座興を添ゆる為のチヤランポランな話なんかする事は一切避け、総て真理のある真実の談話をする様にしたのであると、栄一は解説します。
現代の宴席が嫌われたりするのも、昔からの風習が残ったままで、それが野卑なものと感じられるからかもしれません。宴席を設ける人に団十郎のような、創意工夫があれば、よき風習、伝統行事として存続していくことがあるのかもしれません。