「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【学びとは】炎上したメンタリストにNPO法人がよせた思いとは

 

 炎上した”メンタリスト”の差別発言問題を、NPO法人「抱樸」の奥田知志理事長が、「容認できない」と批判する文章をホームページで公開しています。

 共同通信によれば、DaiGoさんから求められた「勉強の機会提供」は、条件付きで応じる考えといいます。

世界を動かしているのはモラルなのです

知は力なり」というものも真実でしょうが、もっと気高い意味で、「人格は力なり」という表現が真実と、サミュエル・スマイルズは「セルフヘルプ(自助論)」で説きます。 

「ハートを伴わない頭脳」、「善き行動を伴わない知性」、「善を伴わない知恵」はそれなりの力を発揮するでしょうが、それはを為すための力なのかもしれません

われわれはそれによって楽しませてもらったり、何かを教えられたりするかもしれません。しかし、そのようなものを心から称賛することはできません。

(引用:大人の気骨 サミュエル・スマイルズ 編訳:山本史郎 P174) 

 また、スマイルズは、どこの国でも、国力、産業、文明のすべてが、個々の国民、一人ひとりの人格によって決まってきますといいます。

 社会の安全の基礎そのものが、個人の人格の上に成り立っていますといいます。そして、法や制度は、そこから派生したものに過ぎないというのです。 

自然、個人、国家、人種の絶妙なバランスのなかで、それなりの法や制度ができあがってくるのであり、それ以上ではありません。

そして、原因があれば必ず結果が生じるように、一国の国民がどんな人格をそなえているかによって、それにふさわしい国ができあがっているという訳です。

(引用:大人の気骨 サミュエル・スマイルズ 編訳:山本史郎 P174) 

 

学びとは

 NPO法人「抱樸」の奥田知志理事長が記され、公開された全文を読みました。

 これまでの経緯についてに説明があり、DaiGo氏の発言の問題点をあげ、「おわりに」へと展開していきます。

 DaiGo氏自身の主体的な学びが、このような社会の在り方を考えていく機会となればと願っています

彼の学びを引き受けることについては賛否あると思います。ただ、私たちは、学びたいと願う人には誰でも学んでほしいと考えています。但し、その「学び」はこの文頭において言及した学びに他なりません。

当然これは彼のビジネスを応援するためではありません。DaiGo氏が自分を見つめ直し、多くを学んでくださることを願いますし、それが新しい社会、あるべき社会の創造の道のりとなることを願っています。 (引用:DaiGo氏の差別発言に関する見解と経緯、そして対応について NPO法人抱樸 理事長 奥田知志)

www.houboku.net

 奥田氏は、「学ぶ」と言うことは、自分を一旦切開し自分の闇を見つめることから始まりますといいます。「単なる知識の上塗りではなく自己批判を伴う営みだと考えています。本当の「学び」は知識を得ると言う事では全くなく自分のしてしまったこと、あり方を一旦否定することから始まると考えます。それを棚上げにして「学ぶ」ことは出来ません」といいます。

DaiGo氏は、一旦ひとりになり、自分を見つめて欲しいと思います。そして今回傷つけた人々の痛みを全身で感じてもらいたいと思います。「学び」とはそういう事だと考えています。

ですから、抱樸としては安易に「学び」の場所を提供し事柄を済ませることはしません。

徹底的に自己批判していただき、厳しく自らと向かい合ってもらうための対話を重ねたいと考えています。すべては、そのような「学び」をご本人が心から望んでおられるかということです。私たちは、それを常に問いかけていきたい。

(引用:DaiGo氏の差別発言に関する見解と経緯、そして対応について NPO法人抱樸 理事長 奥田知志)

 

学は及ばざるが如くせよ。猶(なお)之を失わんことを恐れよ

 論語「泰伯第八」17にある言葉です。

「学問をするとき、自分はまだ十分でないという気持ちをいつも持て。しかも、得たものは失わないと心掛けよ」ということを意味します。

 学びの時の心構えということでしょうか。

 「及」とは逃げていく者を追いかけて追いつくこと。勉強をするには、逃げる者をつかまえようとするときのように、一瞬の油断もなく努めなければならないが、それでもまだつかまえきれないことを恐れる、学ぶものの態度はこうでなければならない、という意味であろうと桑原武夫は解説します。

dsupplying.hatenadiary.jp

この場合の「学」とは「まねび」すなわち学習であって、真理の追求という意味での学問研究を指さない。本当の意味での学問研究とは、一応の作業仮説はもつにしても、鬼が出るか蛇が出るか、結果を予測せずに、あるいは予測することができぬままに、研究することでなければならない。

 もっとも初心者がいきなり研究などというのは生意気なのであって、それまでに師について基礎的な訓練を重ね、学問の道に習熟しなければならない。(出所:論語 桑原武夫

 学ぶことでもう一人の自分を発見する機会になればいいのかもしれません。

富と貴きとは、是れ人の欲する所なり…

富と貴きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てせざれば、之を得るも処(お)らざるなり。貧と賤とは、是れ人の悪(にく)む所なり。其の道を以てせざれば、之を得るも去らざるなり。

君子、仁を去りて、悪(いず)くにか名を成さん。君子は終食(しゅうしょく)の間も仁に違うこと無く、造次(ぞうじ)にも必ず是に於いてし、顚沛(てんぱい)にも必ず是に於いてす」。(「里仁第四」5)

財産と高い地位とは、人間の求めたがるものである。しかし、正当な方法を用いなかった結果であるならば、たとい得たとしても私はそこにいない。貧困と低い地位とは、人間の嫌うものである。しかし、正しい方法を用いなかった結果であるなら、たといそうなっても私はそこから出ようとはしない

君子 教養人たる者は、「仁」正当なあり方を外れて、どうして「君子」と名乗れようか。君子は、食事中という短い時間においても、正当なあり方を忘れない。いや、慌ただしいときでもそうだ。いや、倒れた時においてもそうなのだ」との意味です。  

とは、最高の基本的価値であって、財産も地位もそれを動かすことはできず、また仁は日常坐臥いかなる瞬間にも君子の生活の中心にならなければならぬ』と桑原は解説します。

dsupplying.hatenadiary.jp

さらに、『君子と言われほどの者に仁以外の居り場所はない』と桑原は解しています。

そして、その仁というのは外に飾り付けたものではないだから、机に向かって冥想しているときだけでなく、どんな瞬間的なまた異常な場合にも腹の中におさまっているもの、つまり人間の血肉となっているはずのものだ。だから食事をしている間も仁から離れるわけはない、というのである。つまづいて倒れそうなときでも仁を離れない (引用:論語 桑原武夫 P79)

 あの渋沢栄一は「道理を伴なった富や地位でないのなら、まだ貧賤でいる方がましだ、しかし、正しい道理を踏んで富や地位を手にしたのなら、何の問題もない」とこの章を解しています。

「正しい道理」と「仁」、他者への思いやりと配慮ということなのでしょうか。

 

 モラルと礼儀作法は社会を暖かな光で照らすもの

 「法律は、モラルと礼儀作法を明確に書き記したものにすぎません」とスマイルズは、いいます。

 さらに、ほんとうの礼儀正しさは他人の意見を尊重することといます。

 人がそれぞれの意見をもつことを、みんなで認めるべきであって、実際に食い違えば、我慢して、お互いを許容し合うべきともいいます。

きつい言葉を相手に投げつけることなど、無用に願いたいものです。言葉が拳で殴るよりはるかに深い傷をおわせて、治りにくいとことでもあるのですから」と、スマイルズはいいます。

 暗く塞ぎがちな社会になっているように感じます。そうした雰囲気が極端を生むのかもしれません。それでもモラルと礼儀があれば、そして、それを表現、行動で示すことができるようになれば、社会を明るくしていくことはできるようです。

 

dsupplying.hatenadiary.jp