少しばかり尖がった意見を持ち、少しだけ過激に振舞えば、安っぽい名声を得ることができるのかもしれません。しかし、似非は所詮似非でしかないとも言えそうです。
「名声は、遅いか早いかはべつにして、真に才能ある者に必ずやってくる」
と、サミュエル・スマイルズは「セルフヘルプ(自助論)」で説いています。さらに、高度な教養の持ち主は主に自分を教育するものだといいます。知識を得る学びは、それと同時に良心を育てることなのかもしれません。
一芸に秀でようと決意したら、気が乗ろうと乗るまいと、朝昼晩、いつも修練だ。
これは遊び半分の楽しみではなく、とてもきつい労働なのだ。 (引用:大人の気骨 サミュエル・スマイルズ 編訳:山本史郎 P68)
「独創的な人間は、基礎を築くことに時間をかける」といいます。
サミュエル・スマイルズはハンターという人物を事例にして紹介しています。彼は、どうしようもないほどつまらないと考えられた事実を莫大な時間をかけて収集していたといいます。たとえばそれは鹿の角の成長だったそうです。
誰もが時間の浪費で、頭の使い損だと決めつけていたそうですが、ハンターは正確な科学的知識はどんなものでも価値があると確信していたようです。そして、その知識が動脈瘤の治療に活かされたといい、彼は名声を得ることになります。
「ハンターは孤独で独立独歩、他人からの同情や称賛によってなぐさめられることなく、ただひたすらわが道を行く天才だった」とスマイルズは言います。
しかし、彼は真に偉大な人間らしく、人頼みではない、最高の報酬を手に入れたといいます。それは自身の良心を満足させることといいます。真直ぐな気持ちで熱心に義務を果たした成果だといスマイルズはいいます。
古(いにしえ)の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす
との言葉が論語「憲問第十四」24にあります。
「昔の学徒は、自己を鍛えるために学ぶことに努めていた。今の学徒は、他人から名声を得るために学び努めている」との意味です。
学問をしていても人に知られない、つまり自分の能力が社会に認められないことは往々にしてあると桑原武夫はいいます。和辻哲郎は次のように言っています。
学問の成果は、「自己の人格や生を高めるという自己目的的なものであって、名利には存しない」 (引用:論語 桑原武夫 P9)
後生 畏(おそ)る可(べ)し
後生 畏(おそ)る可(べ)し。焉(いずく)んぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや。四十、五十にして聞こゆる無きは、斯れ亦畏るるに足らざるなり。(「子罕第九」23)とあります。
「若い者を侮ってはならない。後輩よりも現役の者のほうがすぐれているとどうしてわかるのか。四十、五十になっても、まだその名が聞こえないようならば、畏るるに足りない」との意味です。
若い人は恐るべきだ。
これからあらわれる人間が、現在の人間つまり自分たちに及ばないなどとどうして言えよう。孔子は、青年も勉強し、四十、五十までになんらかの名声を得られないようでは、いっこうに恐れるにあたらないと、注意をつけ加えたのであると桑原は解説します。
炎上し、謝罪したどこかの34歳のメンタリストが、勉強不足を痛感したのでしょうか、ちゃんと学びの場を得ようと、専門家に教えを請うといいます。
学びを通して良心を育てて欲しいものです。
不惑の40歳、40にして惑わず。
40歳を迎えるときどんな人物になっているのでしょうか。
「関連文書」