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【辞は達するのみ】LINEの個人情報管理の問題 ~炉辺閑話 #6

 

「LINE」の個人情報管理の問題で、外部有識者による特別委員会が先日、中間報告を公表したそうだ。

 朝日新聞によれば、「利用者の目線に立ってセキュリティー保護のあり方を確認するとともに、正確な情報発信で説明責任を果たす姿勢が社内で不足していた」と指摘したという。

「LINE」という会社の成り立ちを考えれば、そうなってしまったことも理解できない訳ではないが、リスク管理のあり方について、認識と対応に甘さがあったということなのでしょうか。

 

 

「LINEのデータは日本に閉じている」と、官庁などに実態と異なる説明をしていたそうです。

 問題なのでしょう。 

民は之に由ら使む可し

「民は之に由(よ)ら使む可(べ)し。之を知ら使む可からず」(「泰伯第八」9)といいます。

 人民は政府の施策に従わせねばならない、だが、なぜそうした施策をおこなうのか、その理由を知らせてはならないとの意味する言葉です。 

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 まさか、この言葉を拠り所にしていたことはないですよね、そう勘ぐりたくもなる発言に感じました。

 この論語の言葉を鄭玄という人物は、理由など知らせれば、民のうちの悪い者はかえって施策に従わないことになるおそれがあると考えたそうです。

 利用者離れを恐れたのでしょうか。

 一方で、この言葉には別の解釈もあって、朱子という人物は、「人民は政府の施策に従わせることはできるが、その理由をいちいち理解させることはできない、理解させるのが正しいのではあるけれども、残念ながら現実の問題としてそれはできない」ととっています。

 その理由を知らせても、正しく伝わることはないということでしょうか。だから正しく知らせても、意味がないのだと言いたかったのでしょうか。

 

 

  

辞は達するのみ

 「辞は達するのみ」(「衛霊公第十五」41)という言葉があります。

 伝えたいことが伝わらないのでは意味がありません。ことばをシンプルにして、伝えることが大切なのかもしれません。

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 美辞麗句となると、変な勘ぐりのもとになり、心を読まれたり、誤解のもとになってしまうのかもしれません。

 何か隠したいことがあって、それを取り繕ろうとする。その言葉が後々に自分たちを苦しめるようになっては、何の意味もありません。 

 

ビジネスマナーは、礼以て之を行ない、孫以て之を出だし、信以て之を成す

「君子は義以て質と為し、礼以て之を行ない、孫以て之を出だし、信以て之を成す」(「衛霊公第十五」18)といいます。

  君子は、道理をもって根本として、礼、規範やマナーに従って実践し、謙遜の思いをもって発言し、誠意をもって実行、貫いていくとの意味です。 

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 ごく当たり前のビジネスマナーのようにも感じます。

 今回のLINEの対応には誠意があったのでしょうか。

 LINEが官庁や自治体でも利用されるようになったときに、「データ保存」について見直すべきだったのかもしれません。

 公官庁からのニーズ、データ保管場所を問われているという情報を正確に社内で共有し、対応できていれば、今回のような事態は避け得たのでしょう。

 中間報告書は「構造的な課題を特定する必要がある」と強調したそうです。

 

 

 

吾は隠す無し

「二三子(にさんし)、我を以て隠すと為すか。吾は隠す無し。吾 行ないて二三子と与(とも)にせざるもの無し」(「述而第七」23)とあります。

諸君、私がなにか隠しているというのか。私はそのようなことはしていない。私の行動で、諸君とともにしなかったことはない、との意味ですが、上長たるものが、こうした気持ちを持っていれば、チームの雰囲気もかわり、風通しの良い組織になるのかもしれません。

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 業務上の問題もシェアされ、協働して解決されていくこともあるのではないでしょうか。

 

自分を隠すことはできない

「其の以(もち)うる所を視、その由(よ)る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや、人焉んぞ廋さんや」(「為政第二」10)という言葉があります。

  その人物の日常生活と経てきた過去を観察すると、その人物が求める未来の着地点を察することができる。そうすれば、その人物は自分を隠すことはできない。その人の本当の姿を知ることができるとの意味です。

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 個人としても、大切にしたい言葉ですが、企業としても、こうあるべきなのかもしれません。顧客が見ているということを強く意識した方がよいのかもしれません。

 発言してしまったつたない言葉を発端して、誤解が悪い想像につながり、それがさらに膨らんでいくことで、本来の自分とは異なる虚像が生まれるのかもしれません。

 しかし、それはどちらが正しいかということであるかもしれません。

 自分たちで思う自分と、他者からみた自分が異なることを意識すれば、客観的な目を養うことができるのかもしません。