大師の摯(し)は斉に適(ゆ)き、亜飯(あはん)の干(かん)は楚に適き、三飯(さんぱん)の繚(りょう)は蔡に適き、四飯(しはん)の缺(けつ)は秦に適き、鼓の方叔(ほうしゅく)は河に入り、播鞉(はとう)の武は漢に入り、少師の陽、撃磬(げきけい)の襄(じょう)は海に入る。(「微子第十八」9)
(解説)
「音楽長官(大師)の摯は斉国へ、次席(亜飯)の干は楚国へ、三席の繚は蔡国へ、末席の缺は秦国へ、鼓の方叔は河内(かだい)にへ、播鞉の武は漢中へ、副長官の陽や撃磬の襄はどこかの海島へ、それぞれが去ってしまった」。(論語 加地伸行)
殷王朝が滅びると、音楽に携わる人たち「摯」、「干」、「繚」、「缺」、「方叔」、「武」、「陽」、「襄」も散り散りになった。
「摯」は、「泰伯第八」15にも登場するが、この章の「摯」は孔子と同時代の人ではないことから、継承していく楽師の呼称なのかもしれないと加地は指摘する。
(参考文献)