楚の狂接輿(きょうせつよ) 歌いて孔子を過ぐ。曰わく、鳳(ほう)や鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往(ゆ)く者は諌(いさ)む可べからず、来たる者は猶(なお)追う可し。已(や)みなん已みなん。今の政(まつりごと)に従う者は、殆(あや)うし、と。孔子下(お)りて之と言わんと欲すも、趨(こばはし)りて之を辟(さ)く。之を言うを得ず。(「微子第十八」5)
(解説)
「楚国の狂接輿という者が歌いながら孔子のそばを通り過ぎた。「大鳥さんよ、大鳥さん、世の中真っ暗。すんだことはそれまで。これから先、何とでも。やめなされ、やめること。お上はみな、やばいよ」と。孔子は下車してその者と話そうとされたが、その者は小走りして敬意をはらいながら先へ行ってしまった。その者と話をすることは叶わなかった」。(論語 加地伸行)
「狂接輿」、楚の隠者とされるが、人名ではなく、「狂人が「輿」に接して」と読むのがよいのかもしれないと加地は指摘する。
「狂人」、進取の気性とでもいうのであろうか、志が高くいちずに理想に走る人。
「鳳」は孔子のこと。
この章は、「荘子」でも流用され、そこでは「無用の用」が説かれている。
「人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫きなり」
加地の解説が、このコロナ禍の世情を表しているように感じる。
「已みなん已みなん。今の政(まつりごと)に従う者は、殆うし」。
止めなさい、止めなさい。今、政に関わることは。危ういですよとも読める。
コロナ禍、「無用の用」を考えてみたい。
(参考文献)