斉の景公(けいこう) 孔子を待(あしら)わんとして曰わく、季氏(きし)の若(ごと)きは、則(すなわ)ち吾(われ)能(あた)わず。季孟(きもう)の間を以てこれを待わん、と。
曰わく、吾老いたり、用いること能わざるなり、と。孔子 行(さ)る。(「微子第十八」3)
(解説)
「斉国の君主景公が孔子の待遇としてこう述べた。「季氏ほどの待遇はできないが、季氏と孟氏との中間あたりの待遇でな」と。その後こういった。「もう年老いた。貴殿の登用はできぬ」と孔子は斉国を立ち去った」。(論語 加地伸行)
「景公」、斉の第26代君主。兄荘公の死のあと、崔杼に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は晏嬰を宰相とした。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどといわれる。
斉の繁栄は晏嬰の手腕によるところが大きく、景公自身は贅沢を好んだ暗君とされる。庶子が多く、世嗣(よつぎ)の太子を立てることができず、また重臣の陳氏の勢いが強く、景公の死後に、斉の国では内乱が起きるという。
この章は、景公が孔子を召し出そうとしたときの話であろうか。
「顔淵第十二」11で、景公が「政」を孔子に問い、「君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり」と孔子は答える。
景公が孔子を召しだそうとするが、宰相の晏嬰(晏平仲)がそれを阻んだといわれる。
孔子 三十半ばでの出来事である。
「晏平仲 善く人と交わる。久しくしてもこれを敬す」(「公冶長第五」17)と、孔子はいう。
彼の叡智と毅然とした態度から天成の政治家と感じとっての言葉なのかもしれない。
「晏平仲」、名は嬰(えい、賢人政治家といわれる。質素を旨とし、常に国家を第一、上を恐れず諫言を行い、人民に絶大な人気があり、君主もまた彼を憚ったという。
その晏平仲が、何故孔子の仕官に反対したのだろうか。若き孔子の野心が目に映ったのだろうか。その理由が司馬遷の「史記」にあるそうだ。
孔子が進めるであろう改革に、危惧を抱いたのかもしれない。人心が安定している時期に、あえて改革が必要ないとの判断があったのかもしれない。
賢明で堅実な人を賢人という。
賢人との出会いで、孔子の野心、志は傷つき、挫折を感じたのだろうか。それとも、景公の「年老いた」との言葉に失望を感じたのだろうか。その後、魯に戻った孔子は、弟子をとり教育に励むことになる。その時期に、顔回や子貢などの主要な弟子が入門するそうだ。
孔子、「三十にして立つ」、改めての決意の時になったのだろうか。
人は何時、機会を得るかわからない。景公は孔子が疎ましかったのだろうか、それともその若さを妬ましいと感じただけのことかもしれない。
(参考文献)