仏肸(ひつきつ)召す。子 往(ゆ)かんと欲す。子路曰わく、昔者(むかし)由や諸(これ)を夫子(ふうし)に聞けり。曰わく、親(みずか)ら其の身に於いて不善を為す者には、 君子は入らず、と。仏肸 中牟(ちゅうぼう)を以て畔(そむ)く。子の往かんとするや、之を如何、と。子曰わく、然(しか)り。是(こ)の言(げん)有り。堅しと曰わずや、磨けど磷(うすら)わず。白しと曰わずや、涅(そむ)けど緇(くろ)からず。吾(われ)豈(あに)匏瓜(ほうか)ならん。焉(いずく)んぞ能(よ)く繋(かか)りて食らわれざらん、と。(「陽貨第十七」6)
(解説)
「仏肸が孔子を召し出そうとした。孔子はそれに応じようとした。子路はこう述べた。「昔、私は先生からこう学びました。自分から不善を為すような者のところには、君子は仲間入りなどしないと。いま仏肸は中牟の長官でありながら、そこに拠って主家に背いております。そこへとは、前のお言葉をどうされるのですか」と。孔子は答えた。「そうだ。前にそのように言った。しかし、堅いと言わないであろうか、いくら磨いても薄くならないものは。白いと言わないであろうか、いくら黒く染めようとしても黒くならないものは。私は苦瓜のようなものだ。どうして空中にぶらさがっているだけであって、誰にも食われないのであろうか」と。(論語 加地伸行)
「仏肸」、晋国の大夫。趙簡子(ちょうかんし)の知行地 中牟の代官。孔子63歳の時に謀反を起こしたといわれる。
ここでも謀反を起こした人物の請われた孔子を子路が説得する。「天命」を悟ったはずの孔子でもあせりがどこあったのだろうか。それとも「六十にして耳順う」、相手の心が読め、同情があったりしたのだろうか。
それとも、国の現状がどうにもやりきれないと感じたのだろうか。
「道行なわれず。桴(ふ)に乗りて海に浮かば」と、「公冶長第五」7で、子路にその心情を吐露していた。
「九夷(きゅうい)に居(お)らんと欲す」。「子罕第九」14
万世一系の日本は君を尊ぶことでは中国にまさっているとみた孔子が、日本に移住したいと考えたのでないかと解くのは伊藤仁斎。
そんな人間孔子も、「天を怨(うら)みず、人を尤(とが)めず、下学(かがく)して上達す。我を知る者は其れ天か」と、「憲問第十四」35で、自身を鼓舞したのだろうか。
しかし、匏瓜(苦瓜)とはうまい喩えなのかもしれない。甘い果実ほど美味ではないが、食すれば苦味はあるがうまいものである。食べごろなのに、ぶら下がったままでは、誰のためにならん。
なかなか表舞台に立てずとも、多くの優秀な弟子を育てたそんな孔子は後世では多大な影響を与える存在になる。その運命を孔子自身はわかっていたのだろうか。
(参考文献)