定公(ていこう)問う、一言にして以て邦を興す可きもの、諸(こ)れ有りや、と。孔子対(こた)えて曰わく、言(げん)は以て是(かく)の若(ごと)くなる可からざるも、其れ幾(ちか)きか。人の言に曰わく、君為(た)ること難(かた)く、臣為ること易(やす)からず、と。如(も)し君為ることの難きを知れば、一言にして邦を興すに幾からずや、と。
曰わく、一言にして邦を喪(うし)うもの、諸れ有りや、と。孔子対えて曰わく、言は以て是の若くなる可からざるも、其れ幾きか。人の言に曰わく、予(よ)君為ることを楽しむ無し。唯だ其れ言いて予に違(たが)う莫(な)し、と。如し其れ善にして、之に違う莫ければ、亦(また)善ならずや。如し不善にして、之に違う莫ければ、一言にして邦を喪うに幾からずや、と。(「子路第十三」15)
(解説)
定公が下問された。「一言で国家を隆盛にするに足る言葉が有るか」と。孔子は答えた。「おっしゃられることにぴたりではありませぬが、それに近いものがございます。ある人の言葉にこうあります。「君主となることは難しく、臣下とすることもまた易くはない」と。もし、君上が君子たることの難しさをご理解なさるならば、為君難が、国家を隆盛にするにぴたりの一言に近くはございませんでしょうか」。
定公が下問された。「一言で国の滅亡となるにぴたりの言葉があるか」と。孔子は答えた。「おっしゃられるようなことにぴたりではありませぬが、それに近いものがございます。ある人の言葉にこうあります。「君主であること自体で楽しいことはないが、自分が発言すれば、誰もそれに逆らわない」と。もしその発言が正しく善いものであり、みなが従いますのならば、結構なことです。しかし、もし正しくなく悪しきものでありましたにもかかわらず、みなが従うといたしますならば、亡国に至るにぴたりの一言に近くはございませんでしょうか」と。(論語 加地伸行)
「定公」、兄昭公が重臣たちに国外に追放された後、擁立されて前509年~前495年まで在位した魯の君主。その定公は孔子を大臣に抜擢したといわれる。
「八佾第三」19では、定公は、「君臣を使い、臣君に事(つか)うること、之を如何、と」と孔子に下問した。当時の魯の臣下の非礼を憂いてのことであったという。
孔子は、
君は臣を使うに礼を以てし、臣は君に事うるに忠を以てす
と答えていた。徂徠はこれを因果関係ととり、「君、臣を使うに礼を以てせば、臣、君に事うるに忠を以てせん」と読んでいるという。
こうした関係ができれば、
「唯だ其れ言いて予に違う莫し、と。如し其れ善にして、之に違う莫ければ、亦善ならずや。如し不善にして、之に違う莫ければ、一言にして邦を喪うに幾からずや」
ということは避けることができるのかもしれない。
「礼」、内面の「仁」を形として表現したもの。それが転じ、従うべき社会規範と当時は考えられていたという。
「忠」、心の中にいつわりがない、まこと、まごころ。
「善」、正しいこと。道徳にかなったこと。徳行
「善」「不善」、その定義は時代によって変化したりするのであろうか。
昨今の世界の動きを見ると、そう感じる。
(参考文献)