司馬牛(しばぎゅう)君子を問う。子曰わく、君子は憂えず懼(おそ)れず、と。曰わく、憂えず懼れざれば、斯(すなわ)ち之を君子と謂うか、と。子曰わく、内に省みて疚(やま)しからざれば、夫(そ)れ何をか憂え何をか懼れん、と。(「顔淵第十二」4)
(解説)
司馬牛が「君子」とは何でしょうか、と質問した。孔子はこう教えた。「君子(教養人)は、何も憂えず何も懼れないのだ」と。すると司馬牛は「何も憂えない、何も懼れなければ、それがすぐさま君子でありますか」と問うたところ、孔子はこう言った。「己の心を省みて少しも疚しいところがなければ、一体何を憂え、何を懼れることがあろうか」と。(論語 加地伸行)
「子罕第九」29)では、
「仁者は憂えず、勇者は懼れず」
といった。
そうあるために、君子であるためにも、
「吾 日に吾が身を三省す」
するのかもしれない。
(参考文献)