公門(こうもん)に入(い)るとき、鞠躬如(きくきゅうじょ)として、容(い)れられざるが如くす。立つに門に中せず。行くに閾(いき)を履(ふ)まず。位(くらい)を過ぐるとき、色 勃如(ぼつじょ)たり、足 躩如(かくじょ)たり。其の言は足らざる者に似たり。斉(し)を摂(かか)げて堂に升(のぼ)るとき、鞠躬如(きくきゅうじょ)として、気を屏(ひそ)めて息せざる者に似たり。出でて一等を降(くだ)るとき、顔色を逞(の)べて、怡怡如(いいじょ)たり。階(きざはし)を没(ぼつ)して、趨(こばし)り進むとき、翼如(よくじょ)たり。其の位に復(ふく)するとき、踧踖如(しゅくせきじょ)たり。(「郷党第十」3)
(解説)
「孔子が、国君の表門にお入りになるとき、慎んで身体を曲げ、入れないかのような感じであった。また、立ち止まられることがあるとき、脇に寄られたし、閾(しきい)を踏むなどということはされなかった。国君が佇立(ちょりつ)される場所を通り過ぎるときは、顔色を正し、足は進まないありさまであった。言葉を慎みに慎まれた。衣のすそを摂(と)って政庁の堂にお昇りになるとき、慎んで身体を曲げ、息をひそめ、ほとんど息をされない感じであった。退出して階段を一段お降りのとき、厳しい顔色が解け、喜ばしい感じであった。階段を降りきられ、趨(こばしり)してお進みのときのお姿は端正であった。国君の佇立場所をくりかえしお通りのとき、うやうやしいご様子であった。」(論語 加地伸行)
(参考文献)