「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

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【逝く者は斯の如きか。昼夜を舎かず】 Vol.223

 

子 川上(せんじょう)に在り。曰わく、逝く者は斯(かく)の如きか。昼夜を舎(お)かず、と(「子罕第九」17)

 

  (解説)

孔子は、ある川の上(ほとり)にお立ちになり、こうおっしゃっられた。「流れゆく水流はこのように激しいものか。昼夜を分かたず流れやまない」と」論語 加地伸行

   

 桑原の解説。

 孔子が川のほとりにいて、水の流れを見ながら、すべて過ぎゆくものはこの川の水と同じなのだな、昼も夜も一刻も止まることがない、嘆いたのである。「逝く往なり」と古注にある。孔子が老いの迫るのを憂え、不遇のままに時間が経過するのを嘆いたとする説もあるが、「述而第七」18にみずからいうように「老いの将に至らんとするを知らざるのみ」というのが、孔子の覚悟であるから、ここをあまり孔子一身に結びつけるのは無理であろう。むしろ刑昺(けいへい)に従い、一般に人間も歴史も自然も時とともにうつろうてやまぬことを詠嘆した、すべきである。そうしたものとしてこの「川上の嘆」は美しいイメージの小詩篇をなしているという。これは詠嘆であるが、決して絶望を示してはいない。むしろ静かな諦念の境地である。

 

 

 紀元前六世紀のギリシャの哲学者、ヘラクレイトスは「パンタ・レイ」、すなわち「万物は流転す」といった。彼が生成変化のイメージを河の流れにたとえているのは期せずして孔子と同じであるという。

 しかし朱子をはじめとして、道徳的エネルギーをつねに強調したい宋儒たちは、こうした詠嘆的なよみに反撥する。そして川の水が一刻も停止することなく、つねに連続して動いていくところに力点をかけ、学問をする者は少しも怠ることなく、少しの断絶もなく、努めねばならない、と戒めの言葉ととろうとするのである。しかし、「逝」という字をそのようによみとれるかどうか徂徠とともに疑問とせざるをえない。また、高きから低きに往く川の流れに努力向上のイメージを見るのは、文学の立場から不可能のように思われる。あえて「君子はみずから強(つと)めて息(や)まず」を川に見ようとするなら、流れを遡行する魚のイメージでなければなるまい。宋儒は、エントロピーの法則をどのように解しようとするのであろうか。

  

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(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

  
論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)

  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫