子曰わく、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くし、危邦(きほう)には入らず、乱邦(らんぽう)には居(お)らず。天下 道有らば、則ち見(あら)われ、道無くんば則ち隠る。邦に道有りて、貧にして且つ賤(いや)しきは、恥なり。邦に道無くして、富み且つ貴きは、恥なり。(「泰伯第八」13)
(解説)
「孔子の教え。堅く人の道を信じ、学問を好み、たとい死に至ろうと節操を守って人の道を貫き、乱れようとしている国には入らず、乱れている国は去る。世の中が人の道を履(ふ)んでいるならば、そこで働き、人の道にはずれているならば退いて暮らす。国に人の道が行われているとき、貧賤であるのは恥である。国に人の道が行われていない危邦、乱邦であるとき、富貴であるのは恥である」(論語 加地伸行)
桑原の解説。
学問に対する信頼感を深くしつつ学問を愛し、おのれの信ずるところを守って正しい道において生命を終える。危機に瀕した国には足を踏み入れず、無秩序に陥っている国にはとどまっていない。国家に道義が支配しているときは世の中に出て経綸を行ない、国家に道義が存しないときは世の中をのがれて隠遁する。これが君子の取るべき態度である。だから国家に道義が支配しているときに、その善き政治に参画せず、貧乏で賤しい地位にとどまっているのは恥ずかしいことである。道義が地をはらった国家において、その汚れた政治から利益を引き出し、金持ちになり高い地位を占めているのは恥ずかしいことである。
放浪十四年の苦しい体験を踏まえて、孔子が弟子たちに学問をした人間の生き方を教えたものであろう。「死して後已む」、生命のあるうちは操守をかたくして日々精進する。しかし、自分の信じるところを守り、これを社会にひろめ、人民のためをはかるためには、身の処し方は十分慎重にして配慮することが必要だとするのである。
道義が支配している国において貧賤なのは「恥なり」とまで言い切っているのは注目であるという。基本において欲望を肯定し、その充足が知識人にも当然許されるべきとする、現世的オプチミズムがはっきり出ている。超越的、彼岸的なキリスト教ないし仏教と根本的に対立するところであり、また、現代への適合性をもつところであると指摘する。
(参考文献)