子 南子に見(まみ)ゆ。子路 説(よろこ)ばず。夫子 之に矢(ちか)いて曰わく、予の否とする所の者あらば、天 之を厭(す)てん、天 之を厭てん、と。(「雍也第六」28)
(解説)
「孔子が南子を訪問された。子路はそれを快く思わなかった。孔子はお誓いになった。「この私が、認めることができないようなことが、もしあったとするならば、天は私をお見捨てになられよう。天は私をお見捨てになられよう」、と。」(論語 加地伸行)
桑原の解説。
孔子は56歳の時、魯の執政の地位を捨てて、衛の国に赴いた。時の衛の君主霊公の夫人は南子といったが、宋の国の公女で、美貌と多情で知られていたという。そういう悪評高い女性に会うことは、君子として許されるべきであるどうか。生真面目な子路がむくれたのも、ゆえなしとしないという。そして、孔子は、自分は誓ってミスは犯していないと答えたのである。誓うというのは、少し大げさに感じすらする。どういう事情が伏在するのであろうかと桑原はいう。
「論語」の魅力において、もし欠けるものがあるとすれば、それは女性についての言及がほとんど皆無だという点にあろう。この南子の章は、女性を論じたものではもちろんないが、孔子の異性との交渉を示す唯一の物語として、興味深いとも桑原はいう。
当時は、貴族階級の男女間の交際は自由奔放であったとされている。そこで孔子についても、いろいろの取り沙汰があり、それが伝説化してしまったという。孔子が南子と馬車をつらねてドライブしたともいう。剛直な子路が怒ったのも無理はない。しかし、孔子はどういう気持ちでいたのか、わからない。朱子は、昔は一つの国に仕えるときには、その君主の小君に謁見するのが礼法だから、当然だと解しているが、孔子としては、南子を媒介にして霊公の心をつかみ、自分の道を衛の国の政治に及ぼしたいという野心があったのかもしれないという。南子としては、有名な哲学者とはどんな顔をしているのか、見てやりたいという好奇心はあったであろうが、まさか誘惑しようとまでは考えていなかっただろう。
子路に公式主義的に詰問されて、孔子が自分にもし落ち度があったとするならば、天が私を見放すだろう、と誓ったというのは、いまの常識としては受け取りにくい。まあ、いいじゃないか、というべきところに、そう軽々しく天を引き合いに出していいものだろうか。孔子は言葉や態度には出さなかったが、心ならずも南子の美しい容姿に接して心中いささか動揺するものを感じたためかもしれない。いずれにせよ、このような章を教典の中にとどめたことは、初期の儒教学団が、はなはだしく道学的でなかったことの表われであろうという。難解だが、さまざまの憶測を許す楽しい章であると桑原は言う。
桑原の解説を読むと、いろいろな想像ができる。
剛直な子路を考えれば、孔子が「天が私を見放すだろう」そう答えたことがなんとなく理解できる。それを周りの人間が何やら難しく捉え解釈したのかもしれない。
人間孔子があってもいいのではないか。
(参考文献)