冉求(ぜんきゅう)曰わく、子の道を説(よろこ)ばざるにあらず。力足らざるなり。子曰わく、力足らざる者は中道に廃す。今 女(なんじ)は画(かぎ)れり、と。(「雍也第六」12)
(解説)
「冉求が「孔子の考えに不満で実行しないというのではありません。私が力不足なのです」と述べたとき、孔子はこう教えた。「力不足の者は、中途でやめてしまう。今、お前は限定してしまっている」と。」(論語 加地伸行)
桑原の解説。
一つの憶説として、「私は及ばずながら先生のとなえる先生の道を理解してあちこち説いて回っております。しかし、何しろ力量が不足で同調者が十分に得られないのです」。孔子がこれを戒めて、力の不足な者なら、やってみたうえで、途中でやめることになる。ところが、今のおまえは始めから自分の可能性に枠をはめ、投げかかっている、それでは見込みがないといった」というのである。
「説」を悦(よろこぶ)と読まずに、「説く」と読むとそうなるという。
こちらの読み方の方が説得力があるかもしれない。
力不足と限定の違いがよくわかるかもしれない。
「冉有(冉求)」は孔門十哲の一人と言われる。孔子より29歳年少の弟子。字名は子有。政治的手腕があり、才芸も豊かで、謙遜深かったといわれる。孔子が晩年魯国に帰国した後、冉求は季子の臣となったといわれる。
(参考文献)