子曰わく、已(や)んぬるかな、吾未だ能(よ)く其の過ちを見て、内に自ら訟(せ)むる者を見ざるなり。(「公冶長第五」27)
(解説)
「孔子の嘆き。残念だな。己の過ちを認め、心の中で己を責めることができる者に出会ったことがないのだ」(論語 加地伸行)
桑原の解説、
「人間は過ちを犯すことは避けられない。しかし多くの場合、人はあることが過ちであることに気がつかない、あるいは気がつこうとしない。気がついてもなんとか取り繕うとする。
本当に学問をしている者すなわち道徳的であろうとする人間は、過ちを知ったならば自分を心で咎めなければならないはずだが、そういう人間が見られなくなった。これでは、もうおしまいと言わざるを得ない」。
「道行なわれず」「公冶長第五」7に連なる時勢への不満の表明だろうと桑原は言う。
「コロナ渦」「コロナ災害」が世界を蔽っている。こうした皆が等しく苦難の状況に陥ってはじめて、自らの過ちに気づくのかもしれない。人はどこか自分だけは大丈夫だと過信してしまう。それが無謀な行動であっても気がつかない。しかし、こうして目に見えぬウィルスが自分の身近に迫り、危険であることに気づけば、その愚かさに気づいたりするのであろう。
そんな中でも、生命を守る医療関連の人々、物流維持し食料など生活必需品を届ける人々はどんな使命感を持っているのであろうか。苦しければ、その場から逃避することもできるはずである。彼らを支えているのは高い道徳心なのであろうか。
孔子の時代にはこうした危機迫る事象がなかったのかもしれない。そうであるから、人は自分の中にある道徳心に気づかなかったのかもしれない。
みなが道徳心を呼び覚ませば、この困難を乗り越えられないことはないのだろう。
(参考文献)