「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【孰か微生高を直と謂う】 Vol.117

 

子曰わく、孰(たれ)か微生高(びせいこう)を直と謂う。或るひと醯(けい)を乞いたるに、諸(これ)を其の鄰(となり)に乞いて、之に与えたり。(「公冶長第五」24)

 

(解説)

孔子の批判。誰が微生高をまっすぐな人と言ったのであろう。ある人が微生高に酢を借りに来たことがあった。わざわざ自分の隣の家から酢を借りてきて、その人に与えた。」論語 加地伸行

   

「微生高」、魯の国の人。尾生(びせい)ともいう。

 尾生は女性と橋の下で会う約束をしたが、女性は来なかった。その内に川の水かさが増したが、約束を違わずに動かず、橋の柱を抱えつつ溺死したという。

「尾生の信」という馬鹿正直を表す言葉がそこから生まれたと加地は解説する。

   

 桑原の解説がなかなか面白い。

「直」とはまっすぐであること、剛直で融通がきかぬという含みもありそうだ。この章は、微生高の行動、というよりもむしろ一つの瑣末事の意味をどうとるかに関わっている。大部分の注釈は孔子がこれを非難したものととっている。

しかし、それはおかしいのではないか。自分のところに酢がなければ隣から借りて融通してあげる、それがどこが悪いのか。隣の酢を自分のもののような顔をして融通したところで、立派ではないにしても、何も悪いことではない。そこに偽善ないし虚栄を見ようとするのは倫理主義の行き過ぎで無理である。我が家は酢がありません、ご注文には断じて応じかねます、など切り口上でいうのは愚直といえても、特にほめるべきことではない。この章に道徳的意図を無理に読み込まぬことにしたい。

 

 

 私はこの章に関する限り、徂徠の説に全面的に賛成する。孔子は微笑を浮かべながらいったのだ。微生高は直だなどと世間でいうが、そんなことはない。私の家で彼のところへ酢を借りにいったら、隣の家から借りて来てすぐに用立ててくれた。いい男ですよ、世間の貼るレッテルなぞあてにならないさ。「或」はある人という意味だが、孔子ご自身ととるべきであろう。そうでなければ、こんな瑣末事が世間に知られ渡るはずがない。

 確かに、そう読むと、納得できてしまう。

 

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

  
論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)