「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【未だ知らず。焉んぞ仁なるを得ん】 Vol.113

 

子張問うて曰わく、令尹(れいいん)子文(しぶん)三たび仕えて令尹と為るも、喜ぶ色無し。三たび之を已(や)められるも、慍(うら)む色無し。旧令尹の政は、必ず以て新令尹に告ぐ。如何、と。

子曰わく、忠なり、と。曰わく、仁なるか、と。曰わく、未だ知らず。焉んぞ仁なるを得ん、と。

崔子(さいし)斉(せい)の君を弑(しい)す。陳文子(ちんぶんし)馬十乗(うまじゅうじょう)有り。棄てて之を違(さ)る。他邦に至れば、則ち曰わく、猶(なお)吾が大夫崔子のごとし、と。之を違る。一邦に之(ゆ)けば、則ち又曰わく、猶吾が大夫崔子のごとし、と。之を違る。如何、と。

子曰わく、清なり、と。曰わく、仁なるか、と。曰わく、未だ知らざるなり。焉んぞ仁なるかを得ん、と。(「公冶長第五」19)

 

 

 

(解説)

「子張が質問した。「令尹に、闘子文は三度任命されましたが、少しも嬉しい顔をしませんでした。同じく三度、令尹を免ぜられましたが、少しも怨む気配がありませんでした。その交代の時、後任の令尹にきちんと引き継ぎました。いががなものでしょうか」と。

孔子は答えた。「まごころの人だ」と。「完成された人格者(仁)でありましょうか」。「いやいやどうかな。まだそこまでに至っていない」。

「崔殿が主君を弑(しい)しましたとき、同僚の陳文子は馬十乗分の富も貴い地位も棄てて他国へ行きました。そこでも、これは斉の崔大夫のしたことと同じだと言って去りました。また別のある国に至りましたときも同様のことがあり、去りました。いかがなものでしょうか」。

孔子は答えた。「清潔な人だ」と。「人格の完成者でありましょうか」。「いやいやどうかな。まだそこまでは至っていない」。」論語 加地伸行

 

 

 

 「子文」、本名は闘穀於菟、闘が姓で、子文は字名。生まれて野に棄てられたが虎に育てられたので、その名があるという。「穀」とは乳を飲ませて育てること、「於菟」とは虎、いずれも楚の方言だそうだ。

 「令尹」とは楚の国の宰相。子文は三度宰相となったが、別に嬉しそうな顔もせず、また、三度その職を辞めされられたが、怨みがましい様子もなかったという。辞める時も事務の引継ぎを立派にやった。大政治家といわれるという。

 「陳文子」、本名は陳須無。斉の国のすぐれた家老であったという。前548年、崔杼(さいちょ)が主君の荘公(そうこう)を殺したさい、彼はその無道を怒って、四頭立ての馬車十台を出しうるほどの領地を棄てて他国に亡命したという。しかし、そこに行ってもやはり崔杼と同じような無道な丈夫が支配している、といって、また別の国へいった。そこでもまた不満で同じ言葉を吐いて去ったという。孔子はこの人物を清潔と評したが、仁者とは認めなかったという。

 

 

 

 桑原はこう解説する。「未だ知らず。焉んぞ仁なるを得ん」を「わからないね、仁とは言えまい」といった程度の語調であるかもしれないという。また、「未だ知らず」という句は、次にくる「焉んぞ仁なるを得ん」がそのままでは当たりが強すぎるので、その語調を柔らげる意味で挿入されたのではとみる。

 この二人の政治家は、それぞれ忠実ないし清潔ではあるが、仁政という見地からみると、彼らがどのように個人道徳において立派でも、社会にその恩恵が十分に行きわたっていない以上、「仁」とはいえない、とするのである。おのれ一人を清くする陳文子の場合は特にそうであろうと。

 

 子游は子張を「及び難い優れた人材だとは思うが、仁には至っていない」(「子張第十九」15)という。

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「子張」、人となり才が高く、意が広く、人の感情などに拘らないところがあったという。孔子のことばは、己ひとりを清くあろうするだけの子張に対する指導であったのだろうか。

 

 

 「子張」、姓は顓孫、名は師、字名が子張。陳の人で、孔子晩年の弟子。もっと若く秀才といわれる。「礼」の専門家。

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史記」に、「師や僻なり」とあるように、子張は時として正統を離れる異説を好んだようであるという。 子路、子貢に次いで登場回数が多く、影響力もあったのだろうか。

 

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

  
論語 (ちくま文庫)

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