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【善く人と交わる。久しくしてもこれを敬す】 Vol.111 ~一期一会の意味を知る

 

子曰わく、晏平仲(あんへいちゅう)善く人と交わる。久しくしてもこれを敬す。(「公冶長第五」17)

  

(解説)

孔子の教え。晏平仲は人間関係を保つことが巧みであった。長いつきあいとなっても、相手は晏平仲に対して敬意を失わなかった。」論語 加地伸行

 

 皇侃(おうがん)は最終句を「久而人敬之」とし、他では「久而敬之」で人がないと桑原は指摘する。

 「人」を含まずに読めば、晏平仲は人との交際が立派だった。交際が長くなっても馴れっこにならず。相手に敬意を持ち続けたとなるという。「人」を含めて読むと、「之」の意味が逆転することになり、「之」は晏平仲を指すことになるという。

  その上で、桑原はこう解説する。「善く人と交わる」の善くとはどういうことか。まさか上手に、つまり利益のありそうな人とだけきれいに交際するという意味ではあるまいという。「私は日本語の「よく」の感じで、好んでと解したい」と桑原はいう。

 

 

「あけっぴろげで、こだわりなく誰とでもつきあう。相手は、晏先生は気軽なお方だ、などと軽く考えて交際を続けるうちに、彼には叡智と毅然としたところがあることをしだいに発見して、立派なお方だ、ああいう方につき合っていただいているのはありがたいことだ、と思うようになってしまう。いかにも天成の政治家だ」と、孔子がいったのであろう、と桑原は解説する。

 

「晏平仲」、名は嬰(えい)斉の宰相。賢人政治家といわれる。質素を旨とし、常に国家を第一、上を恐れず諫言を行い、人民に絶大な人気があり、君主もまた彼を憚ったという。 

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 今、この時代にあって「善く人と交わる。久しくしてもこれを敬す」の語義を考えてみると、「善く」という言葉が重く圧し掛かってくる。

 SNSの交流においても、「善」を逸脱したような言葉が散見される。

「善」の反対語は「悪」、「愚」というイメージもつき纏う。

善く人と交わる。久しくしてもこれを敬す

 SNSにおけるマナーなのだろう。マナー・規範が身につけば礼に近づく。礼とは規範であり、その「礼」を理解できれば、一期一会の意味を知る。

 「礼儀」、慈悲と謙遜という動機から生まれ、他人の感情に対する優しい気持ちによってものごとを行なう。礼の必要条件は、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことであると岬龍一郎はいう。

 茶道ではこの礼を重んじる。「一期一会」もその茶道の精神から生まれたといわれる。

「一期一会」、あの井伊直弼が、千利休の弟子山上宗二の「一期に一度の会」を直して生まれた。めぐり逢う機会が一生に一度であると覚悟して、誠を尽くすことで、その緊張と真剣さを期待した言葉で、そこから転じて、出会いを大切にしろとの意味になったという(参考:日本人の品格 岬龍一郎)。

  

善く人と交わる。久しくしてもこれを敬す

 SNSの交流においても、礼を基本として、「敬」が求めるべきなのだろう。

「敬」とは、物事を注意深く行う。おろそかにしない。他人を尊んで自分の挙動をつつしむ。うやまいとうとぶ。うやうやしくするなどの意味がある。

 思いやりに通ずるのだろうか。

 人を攻撃したりすることは愚かしい行為なのかもしれない。それが繰り返されるようであれば、それは「悪」ということなのだろう。  

 

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

  
論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)