子曰わく、君に事(つか)うるに礼を尽くせば、人以て諂(へつら)いと為す。(「八佾第三」18)
(意味)
「君上に接するとき、礼を尽くすと、人はそれをおべっかと見るのだ。」(論語 加地伸行)
桑原は、この章を孔子自身が君につかえたときの経験とみ、なかなか思うようにはいかないものだと、弱気をふと親しい弟子洩らしたのではないかという。
下克上の時代にあった当時、魯の国では季氏ら三家が君主を抑えて横暴をはたらいていたという。すでに礼法が乱れ、崩壊過程に入っていた。孔子はそうしたときにあっても、上下の秩序を尊び古来の礼法を完全履行することによって君臣の正しい関係を守ろうとした。ところが阿諛(あゆ:おべっかをつかうこと)と罵られたのは、それが古めかしく固苦しいと感じられたからというより、三家の党派に属する連中が、政争の一手段として嫌がらせしたのだろうと桑原は推測する。
善意の行為も悪意の誹謗を免れない。
人の感情に「やっかみ」や「嫉妬」などネガティブなものがある。
ネガティブな感情が常に悪いということはない。必要なものもあるし、不要なものもある。
人は、他人の行動から「その人なり」を知ろうとする。
『君に事うるに礼を尽くせば、人以て諂いと為す』
「やっかみ」や「嫉妬」は不要なネガティブ感情かもしれない。
やっかみ
人となりを知ることの難しさかもしれない。
時として、そこから誤解が生じる。
(参考文献)