子貢告朔(こくさく)の餼羊(きよう)を去らんと欲す。子曰わく、賜や、爾(なんじ)は其の羊を愛しむ。我はその礼を愛しむ、と。(「八佾第三」17)
(意味)
「子貢が告朔の礼に用いる羊の犠牲を廃止しようとした。それについて孔子はこうおっしゃられた。「賜君よ、お前は羊がむだとするが、私の場合は礼式が崩れるのを残念に思う」と。」(論語 加地伸行)
今の時代に犠牲(=生贄いけにえ)の話もあろうかと思う。まして、ここ最近ではリアルファーですら、嫌われる傾向がある。
孔子が意味することは理解するが、子貢が羊の犠牲をムダと考えたのは、現代人の私たちからすれば、当然であって、そこに疑問投げかける孔子に不思議を感じる。
礼式も時代にあって変化する。礼の本筋を違えなければ、例えば、礼 2.0があっても良いように思う。礼1.0を知りえて、2.0に進化するのだから。
この言葉の解釈を考えると、如何ようにでも解釈できるなと思う。何も古典に従い、解釈するのが論語であるまい。大筋を外さなければ、現代に合わせた解釈があったほうが良いように思う。とかく、古典はハードルが高いと思われがちである。ハードルを下げる工夫があってもよいと思う。漫画版の論語もあるのだから。
(参考文献)